「峠」司馬遼太郎 美しく生き、美しく散る。
自粛生活のおかげでやっと読み終わりました!
幕末から戊辰戦争時の越後 長岡藩 家老『河井継之助』。それまでほとんど無名に近かったその名を、一躍世間に広めることとなった歴史小説。
―――スイスのような平和な中立国家を目指して奮闘した改革者なのか、それとも戦局を見誤り町や民衆を戦火にさらした失政の張本人か―――
かれに対する評価は、現在でも分かれています。この物語は、日本が近代国家へと生まれ変わる動乱期に、かがやかしい理想を抱きながら42年の人生を駆けぬけた、河井継之助の怒涛の半生をえがいた作品です。
『長岡藩』を『スイス』のごとき『永世中立国』に
横浜で知り合ったスイス人、ファンブル・ブラント。当時スイスはヨーロッパにおいて武装中立をしており、雪山の中にある小国であるという長岡藩(新潟)との地政学的な共通点を知ることとなります。
彼が最後まで描いた理想。京にも江戸にも属せず、できれば日本の大名たることを脱して『長岡国』として世界の列強と国交をむすびたい。それいがいに越後長岡藩の生きてゆく道はない。そう信じた継之助。
峠の先に彼が見たものは・・・
彼は長岡藩の勘定方(会計係)の家にうまれ、家格は120石。まあまあの武士の家柄です。藩学である「朱子学」をまなび、そのご「陽明学」に傾倒してゆきます。「陽明学」の根本思想は「知行合一」すなわち言論よりも行動を重んじる考え方です。
家族をのこし、学問をもとめて江戸へのぼる真冬の三国峠から始まる物語。まるでこのさき数ある戦という厳しい峠道の始まりに感じられてなりません。
すごすぎる先見の明
ながい封建制度で諸大名という公国を多数分置し、その連合体のうえに将軍が座るという統治形式で、諸大名の領内政府にまでは将軍の政治は直接およばないという「神君(家康)の作った日本の統治制度」は、幕末という時勢には適わないことを彼は語っていました。
この時代でこれだけ先の未来を見越せるってすごいなと。
かれは積極的に横浜にむかい、様々な商人たちから生の世界情勢を聞けば聞くほど日本の遅れに危機感をいだきます。「徳川幕府、いや武士の世の中はもうすぐ崩壊するにちがいない。そうなったとき我が長岡藩をどう生きのこらせるか」。
それが彼の「生涯の仕事」として選んだ道でした。
自国の防御だけは強化しよう
そうなるともう、せっせせっせと武器を買うわけですよ。大量の弾薬とクリミア戦争で活躍した「ミニエー銃」のほか、手動機関銃「ガトリング砲」を横浜の貿易商ファーブル・ブラントから購入しています。
「ガトリング砲」は、この数年前にアメリカで発明されたばかりの超最新兵器、いわゆる「機関銃」で、当時世界全体にもわずか十数丁、日本には三丁しかなかったといわれています。
これらの武器を用いて、刀や槍が中心の、中世的な家臣団の編成を一新。列強諸国の軍隊を参考に、全員が新式銃で武装した近代的な軍団をつくり上げたのでした。(「刀が命」の武士からすごい反発あったけど・・・)
長岡藩を会社に
才能のある継之助は、昇進を重ねてついに家老になります。会社でいうと取締役というところでしょうか。(ちなみに殿様(社長)にはなれません)。長岡という藩に1つの国家を作るという理想を掲げ、まずは石高制をやめ、藩士にはサラリーを払い、その後数年で藩の改革に成功することとなります。
だれも頼んでいない使命感を、一八、九のときに明快に持ち江戸に出る。藩に戻って改革をする。この行動力こそが「陽明学」の根本思想「知行合一」、言論よりも行動を重んじる、という考え方からくるものなのかなと感じました。
勤皇討幕の官軍が押し寄せる
数年後、戊辰戦争が始まります。このあたりは歴史好きならよくご存じと思いますが、官軍は京都の町を出た時からお金がない。なので沿道の大名を恐喝しながら江戸に向かってゆく。ひどい話ですけど、司馬さんはこれを「合法的、歴史的、時代的な時勢の力を借りた恐喝ですね。「錦の御旗」です。」と表現されています。
そして三陸から北陸の方の大名も、みな朝廷(官軍)方になってしまいます。その勢いに乗りとうとう長岡まで来てしまった官軍。ですが河合継之助という人は、別に官軍と対抗しようとは思っていなかった。薩摩・長州の野望は見ぬきながらも、最新兵器を装備した近代的な軍隊をもつ長岡藩は中立の立場で、新政府軍と会津藩や旧幕府軍の調停役を務めたいと考えていたのです。
しかし小千谷会談が失敗に終わり(このあたり可哀相で仕方ないのですが)、戊辰戦争最大の激戦、北越戦争(1868年 慶応4年)がはじまります。継之助の考えとは。。
いくさは悲惨だが、いくさを避けてサムライの精神を失うことのほうが国にとってダメージが大きい
武士道を一貫するものは美しく振る舞うこと、美しく振る舞う精神、そして美意識。すなわち、武士道は武士の美学。
「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」
河井継之助はあくまでも武士。彼は「譜代大名の家老」という立場を生き切ります。武士道精神がかれの体内を貰いている。かれは生涯を通じて「武士」であることをやめようとはしなかった。
最後の100ページほどは涙が止まらず、読み終えてから2、3日余韻に浸ってしまいました。
「花は桜木、人は武士」
これは桜こそ花の中の花、武士こそ人の中の人で、桜と武士の美しさを讃えた俚諺です。この俚諺には散り際の美しさを讃える意識が内包されていて、桜が潔く散るように、武士も潔く散る(死ぬ)のが美しいとする考えが、武士道に存在します。
「さっさと降参して「官軍」なれば良かったのに。」と多くの方が批判するように、中盤では自身の理想のため長岡藩全体を振り回してしまう継之助に苛立ちを覚える方も多いのではないでしょうか。しかし読み進めていくうち、使命、信念、なんでしょうか、もう、すべてが美しい。
継之助、最後の言葉
河合継之助は官軍の鉄砲玉にあたり、享年41歳、破傷風で死去します。足が腐っていくなか、会津への退却の際、峠をいくつもいくつも越えてゆく。だんだん息も苦しくなってくる。ある山中の村で信頼する部下、松蔵に頼みます。
「火をおこしてくれ。死んだらすぐに俺を焼いてくれ。官軍に俺の死骸を渡すな。」
そうして彼は、燃えさかる火を見つめて死んでいきます。彼の最後の言葉はこうでした。
「松蔵、もっと火を強くしろ」
主君である牧野家(譜代大名)への忠義と、長岡藩を守るために生きた。
カッコワルイ日本人を皮肉たっぷりに書き綴っているあとがき、すごく好き。そして司馬遼太郎さんはこう仰っています。
「もし彼が薩摩に生まれているか、長州に生まれていれば、われわれのどこかのポケットに入っているお札に彼の名前が、あるいは顔が印刷されていただろうと思います。」
大きな才能を持ち、天下のために、日本国のために生きればよいのに、主君であり譜代大名で徳川家と運命を共にする牧野家への忠義と、長岡藩を守るために咲いて散った。
感想まとめ
いくつもの峠を越えて、炎を見つめながら彼が考えたもの。最後に見えたものは一体何だったのでしょうか。
今の日本、そして日本人をみて果たしてかれはどう思うのか。彼が激動の人生のなか武士としての圧倒的な美学を掲げて見せつけた最期は、後世の私たちへのメッセージに感じてなりません。
それをメッセージとして受けとめ、多くの先人たちの命や努力のうえに今の日本があることに感謝をし、謙虚に、改めて自分には何ができるかを考えなければと強く思いました。
最後に河合継之助の好きな言葉。
映画化!
「峠 最後のサムライ」のタイトルで2020年に映画化することが決定(9月25日公開予定)。主演の役所広司をはじめ、松たか子、田中泯、香川京子、佐々木蔵之介、仲代達矢ら豪華キャストが結集。とっても楽しみです。