感覚がなくならないようにちゃんと言う。
自分は結構、相手の立場によらず意見を言う方だとは思う。
別に「反骨心かっこいいー」とか「権威のある人に言えてすごいだろー」っていう意味でやってるわけじゃない。
ただ単に自分のなかで気持ち悪いから、それだけだ。
もちろん、言う必要のないときや相手のプライドを落としてしまいそうな時、TPOはわきまえます。
自分の周りに関係あるときや意見を求められたときには、率直に言ってしまうことが多いです。
もともとは優柔不断・おとなしめ
これでも、こどものころはおとなしいと有名でした。
いま振り返ってみると、ひとつの質問とか言葉に対し、いろんな状況を想定しすぎて言葉に出せないことがおとなしい、に繋がってしまっていた気がします。
これいったら失礼かな?とかいま周りしずかだけど言っていいのかな?とか年齢的に自分がすごいしたなのにこの言葉使っていいのかな?とか考えているうちに「おとなしい認定」されていたのでしょう。
言わないと意見がないということになる
相手の気持ちを汲んでくれる人間ばかりではないから、困ったとき「声をあげる」必要があるのと同じで、日常から意見を上げないと「ない」と判断してくる層は残念ながら多い。
本心を言おうが、場に合わせた対応をしようが一定数、批判はどんな場合もある。
そう考えたら、自分と発言のずれにもやもやするよりは、そのままの発言で自分を捉えてもらった方が楽。自分の本心とは違うことを言って、誤解されたうえに嫌われたら問題が複雑だ。
自分の「嫌、おかしい、違う」はちゃんと受け止めないと麻痺していく
そんなことを言うのは、社会で生きていくのに激しく順応していた時期があるからなのですが、おかしい、という違和感はこどものころから敏感であったはずなのに、それを無視するようにしていた時期。
いっときは社会に順応できてる!オトナ!って思うのですが、そのうち、面白い、好き、楽しい、もわからなくなってくる。
一時期は、テレビやお笑いを見ていても、「なにが面白いのか笑うポイントがわからない」「人が爆笑しているのに、なぜそこで笑えるのか心底わからない」という状態でした。
話す、こと自体もめんどうになりつつあったので、鬱の入口だったのかもしれませんが、遠因は「自分の感覚」を無視し始めたことだと思っています。
こころはからだにも影響を与える
それでも倒れるほどではないから感情の無視を続けたまま、社会に順応していると、今度は顔面麻痺になりました。動かない。
感情が動かない→筋肉もお仕事がない、と体が解釈してしまうのでしょうかね。
社会から離れて、ココロが動くまでに数年はかかりました。
だから、いまは「自分のイヤという感覚」は無視しない。失礼にあたる場以外では言葉を選びつつも、伝える、ということは気を付けています。
また麻痺させて、数年なんて回復に使いたくない。
ささいなことに爆笑できるほうがいいので、どっかで権威のある人に率直に言い過ぎて嫌われたくらいはどうでもいいのです(笑)