![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/51352017/rectangle_large_type_2_faa1d77ed71af9c04bd845ee51ee125d.jpeg?width=1200)
最近のまなびごと 場所・モノ・ひと?
数年前に「学校外の学びの場所」として活動始めて、最近ペースダウンしています。
それは世の中のフリースクールや、居場所が増えてきたり、以前より一般的になってきたからです。
そこの部分は、文科省も動いているし、テレビ番組で、不登校やホームスクールなど特集されることも多くなってきて、理解も進んできてはいる。
よいことである、と同時にその恩恵を受けているひとが目立って、届いていない部分が前以上に陰になってしまってないか、ということ。
学校と同じく、フリースクールや居場所だって、合わなかったり大都市圏にしかないのなら、行けない。学校も行かない、フリースクールも行かないなんて甘えるな、という意見もありそうだが、その意見が出る時点で、フリースクールの存在意義は学校と同義になってしまい。こどもの想い抜きに「出席日数」のために引っ張っていく場所になってしまう。
フリースクールなどが出席日数になる。
その進歩は確かに素晴らしい。IT授業で出席日数になることを教育委員会が知らず保護者が説明するような時期に比べれば、だ。
ただ、ちょっと出席日数が増えたところで、進学できる選択肢は相変わらず通信制高校中心であったり、通信表が斜線なのだ。進路に対して積極的に頑張るきっかけ・モチベーションにはつながらない。
それにも関わらず、出席日数がもてはやされるのは不思議だ。もちろん、毎日行っている子との違いは設けるべきだと思う。でも、学習好きの不登校が多いことからも、頭が悪いわけではないのに、進学の選択肢が限られる(特に地方)システムが改善されてこその出席日数へのこだわりだと思う。個人的には。
テレビ番組で取り上げられる不登校は。結局はいい大学に進学している、とか成功例をとりあげる、相変わらず。
○年生のとき不登校を経験したが現在は有名大学にうんぬん、、
不登校は許してあげる、その代わり社会的に認められるかたちになったときだけね!
という編集の歪みというか。
完全否定より進展はしている。でも、有名大学にでも行かないと「甘え」「将来が大変」とか結局言われることは変わってない気がする。
活動しはじめたとき、学習の機会確保、とかフリースクールとか、教育者の理解促進、とかそういうのじゃなくて、
成長期の時間、罪悪感抱えて何年も過ごさせるなんてもったいなくね?(゜゜)
が一番思ってたこと。
結局、こどもという他人の時間を、親や学校がコントロールしている感。
自分以外のひとに対する「尊厳」がない。ないから、それが支援といえども、発言や行動ににじみ出てくる。
それをこどもや保護者は感じ取ってしまう。
学校行く行かない、フリースクールがあるなし、の問題ではなく、学校に来るように登校刺激する先生が問題なのではなく、その行動に尊厳持って対処しているかどうか、なだけな気がするんですよね。
だから、フリースクールだろうが、管理型の支援しかしないところにはこどもは行かないだろうし、結局は学校と同じ不登校状態を作りだす。
それはこどもがわがままや甘いんじゃなく、大人が支援とかサポートとかを「自分の意のまま、管理」と吐き違えているからだと思う。
きれいな管理でもですよ、叱るとかそういうネガティブなことしていなくてグローバル教育やアントレプレナー的なものもりだくさんでも。
そこに人(こども)との、それが必要かどうかのやりとりがなければ、ただの大人の押し付け。
大人に対する教育ビジネスならいいのかも、ですが、こどもに対する教育はある意味、福祉や医療も関わってくる社会的なもの。
どの立場でも、どの年齢でも、結局「ひと」とどのように対応してきたか、これからの社会は、堅苦しい表現したくないけど、人権というか、どんな状態の人であれ(入管の収容者の件のように)
人としての尊厳
は絶対に持たれるべきだし、ましてやそういった窓口や機関(教育機関含む)やソーシャルワークをしている人は、多少義務的にでも、その感覚を持つべきだし、それができない人はものすごく人の人生に悪影響を及ぼす可能性があるのだから、そういう職種になれないシステムを構築してほしい。
でも、現実社会はまだまだ。
少しずつ変わっていくことを期待して、自分はどこの部分をやっていけるだろうか。