中国史小話集⑩
【『史記』「刺客列伝」と壮士・荊軻】
『史記』には後代の歴史書に見られない列伝があるが、その一つに「刺客列伝」がある。春秋戦国時代の暗殺者を取り上げているが、暗殺成功の事例は少なく、むしろ忠義や孝行のために筋を通そうと命を投げ打った壮士の伝記という趣が強い。
豫譲や聶政が有名だが、おそらくもっとも知られているのは荊軻である。荊軻は燕の太子で秦の人質だった丹が、秦王政(始皇帝)暗殺のために派遣した刺客である。荊軻は侠気溢れる人物で(なぜか、ゲーム『Fate/grand order』では女性になっている)、結果的に暗殺には失敗したが、壮士として歴史に名を残すことになった。
一方で、燕太子丹は、このことで名声を下げてしまったところがある。というのは、当時すでに秦の拡張を抑えることはできなくなっており、たとえ秦王政を暗殺できたとしても根本的解決にはならなかったためである。丹には秦王政に対して個人的恨みがあったようで、そのために貴重な人材(荊軻)を浪費してしまったと言えるのである。
【正史の列伝における人選について】
中国の歴史書には「列伝」という重要人物の伝記が付されていて、だいたい何らかの関係または共通点がある数人が一巻にまとめられている。ただ、中には違和感のある人選もあって、例えば『後漢書』の場合、劉焉、袁術、呂布が一巻にまとめられているのだが、天子を夢見た劉焉と天子を僭称した袁術が組み合わされるのはわかるのだが、呂布が浮いてしまっている。同様に劉虞、公孫瓚、陶謙が一巻にまとめられているのだが、対立していた劉虞・公孫瓚の2人と陶謙には関連がないように見え、陶謙が浮いてしまっている。しかし、陶謙と呂布を比較すると違和感が強いのは呂布のほうで、呂布が一人余ったので、最後の劉焉と袁術にくっつけたのではないかと邪推してしまう。
『三国志』にも違和感はあり、張楊と臧洪は私の知る範囲では曹操との絡みがなく、『三国志』に立伝されていてのが不自然である。そして張楊はなぜか『後漢書』に立伝されていない。
【『後漢書』と『続漢書』】
現在読まれている『後漢書』は、中国・南北朝時代に范曄が編纂したもので、成立年代は『三国志』より下がる。范曄以前にも後漢の歴史書は編纂されていて、それらを「七家後漢書」と言ったが、范曄の『後漢書』が広く読まれるようになると散逸してしまった。
范曄の『後漢書』は紀伝体で書かれている。これは司馬遷が『史記』で確立した歴史叙述の方法で、皇帝の事績を纏めた「本紀」、群臣の伝記を集めた「列伝」、官制等の記録である「志」、テーマ別年表の「表」から成る。范曄は『後漢書』の本紀と列伝を編纂した後、政争に巻き込まれて刑死したため、志と表は編纂されなかった。そのため、現行の范曄選『後漢書』には、晋の司馬彪が編纂した『続漢書』の表が組み合わされている。その結果、司馬彪の『続漢書』は散逸し、表のみが完存するという捻れた残り方をした。
著作権等々のない時代とは言え、他人の著作を、しかもその一部のみを組み合わせるのはどうかと思う。
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