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吉野ヶ里遺跡の石棺墓についての雑感

吉野ヶ里遺跡の石棺墓が話題である。
吉野ヶ里遺跡は佐賀県にある弥生時代を代表する集落遺跡で、「クニ」の中心的な集落の全貌や、弥生時代700年間の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっている。そのことから国の特別史跡にも指定されている。
吉野ヶ里遺跡では、遺跡内にあった神社が移転したことを契機に、昨年から旧境内地の発掘調査を実施している。令和5年度の調査で、石棺墓1基が発見され、見晴らしの良い丘の上に築かれていることなどから有力者の墓と見られている。未盗掘とみられ、期待は大きかったが、残念ながら副葬品はなかった。ただ、赤い顔料が検出されており、大量の朱が入れられていたのかもしれない。

吉野ヶ里遺跡で新たに発見された石棺墓

さて、この石棺墓、発見された当初から邪馬台国と結びつける言説がまかり通っている。そもそも、なぜこの石棺墓が邪馬台国と関連するかといえば、ある記事では石棺墓が弥生時代後期の墓制であるという点から「弥生時代後期=邪馬台国時代」と短絡的に結びつけているようなのである。今回見つかった石棺墓は大発見に違いないのだが、いろいろとモヤモヤするのは、各メディアが邪馬台国と結びつけて大騒ぎしたせいである。
弥生時代後期になると、日本の各地で大型の墳丘墓が築造されるようになる。墳丘墓自体は吉野ヶ里遺跡にもあり、これは古墳時代中期前半のものと古いのだが、後期の墳丘墓の特徴は後の古墳につながる少人数埋葬にあると思う。つまり、原則一首長につき1基の墳丘墓が造られるようになる(追葬が行われる場合はある)ということである。こうした墳丘墓と比較すると、今回見つかった石棺墓は残念ながら見劣りする。「卑弥呼の墓か」と煽ったメディアがあったので書くが、私は、卑弥呼の墓は墳丘墓であったと考える(魏志倭人伝にも「冢(塚)を作る」とある)ので、今回見つかった石棺墓は仮に卑弥呼の時代のものだとしても卑弥呼の墓ではない。卑弥呼の墓は、おそらく福岡県平原遺跡の如きものだと思う。

弥生時代の王墓、平原遺跡

今回の吉野ヶ里フィーバー、各メディアが邪馬台国と結びつけて煽りすぎたきらいがある。遺跡の発掘調査が、普段は関心を持たない層からも注目を浴びたのはいいことだが、報道の姿勢には首を傾げざるを得ないできごとであった。


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