マガジンのカバー画像

歴史の小箱

28
自作記事のうち、歴史に関わるもので特に読み応えのありそうなものをまとめました。
運営しているクリエイター

#日本史

続・邪馬台国と卑弥呼に関する私見

中国史研究の界隈では、政治的理由から邪馬台国の位置が意図的に南へずらされているのでは、と考えられているようである。そうなると、魏志倭人伝の里程(日程)表記は信用できなくなる。ただ、伊都国以前と以後で表記が違う(伊都国以前は里程、以後は日程)ところから、魏の使節は伊都国までは行ったと考えられる。それ以前の日程は使者の報告があるのでさすがに改竄できないだろうし、以降の日程も無理に引き伸ばしたり縮めたりしたとは考えにくいから、私は方位を東から南へ置き換えたと考えたい。ここまででわか

¥500

天皇の実在はどこまで確かと言えるか

日本の皇室の系譜は一体どこまでが確かなのか、考えてみよう。 手がかりになるのは継体天皇である。現状、実在が確定している最初の天皇は継体天皇と言っていい。継体天皇が生きたのは6世紀初頭。墓は大阪府高槻市の今城塚古墳が有力視されている。そこから類推すると、応神天皇以降の天皇は実在した可能性が極めて高い(ただ、顕宗〜武烈天皇は実在があやふやで、応神天皇の系譜は清寧天皇で途絶えている可能性もあると思う)。

¥500

記紀の記述と春秋二倍暦説

記紀(古事記と日本書紀の総称)によると、雄略天皇以前の天皇について、多くが100歳以上という人間離れした長寿だったことにされている。これはおそらく、寿命が引き伸ばされた事によるだろう。

¥500

継体天皇の出自について

今回は継体天皇の出自について書いてみる。 継体天皇は越前の出身で、北近江の息長氏や三尾君との関係が取り沙汰されているが、記紀によると応神天皇五世の孫となっている。

¥500

百済王子豊璋と中臣鎌足が同一人物!?

関裕二氏の本に書いてあったように思うが、中臣鎌足と百済王子豊璋を同一人物とする説があるらしい。関氏のオリジナル説か、他に提唱者がいるかはわからないが、学界発の学説ではなさそうだ。 その根拠は「大織冠を得た人物が記録上豊璋と中臣鎌足しかいない」「豊璋が百済に戻って戦っている間、中臣鎌足の記述が『日本書紀』に見られない」の2点。白村江の戦いで百済滅亡が決定的になると、豊璋は日本に戻り、再び中臣鎌足として国政に携わったというのだ。

¥500

日本のお金小史

日本において貨幣が登場したのは飛鳥時代後期、天武天皇の治世。奈良県飛鳥池遺跡の発掘調査で一躍有名になった「富本銭」である。『日本書紀』天武12年の記述にある「今より以後必ず銅銭を用いよ」の銅銭は、この富本銭を指すと考えられる。ただ、この富本銭はどの程度貨幣として流通したかは定かではない。

¥500

みやこ(京・都)の変遷

今回は都城の変遷について書いてみたい。 飛鳥京、大津京と呼んでいるが、これはどちらも誤りである。なぜかというと、どちらも条坊制を伴う市街地を持たないからである。 初めて造営された京=都(みやこ)は藤原京で、現在の橿原市に所在する。この都は短命で、わずか16年で廃止される。その理由は諸説あるが、大規模河川から離れていて利便性が悪かったことと、北が低く南が高い地形のため、汚水が北=宮城のある方へ押し寄せてきたことなどが有力視されている。また、藤原京が『周礼』という中国の古い文献に

¥500

偽書・偽文書考

近年、椿井文書という古文書群が物議を醸している。馬部隆弘先生によると、江戸時代、現在の京都府木津川市の住人であった椿井政隆が一人で作成した大量の偽文書だそうだ。これは長らく偽文書と考えられておらず、馬部先生の研究で一気に日の目を見た。信頼に足る文書として市史編纂事業などで活用され、まちおこしの典拠となるなど被害は大きい。これがなぜ今まで知られてこなかったかというと、椿井政隆の周到さにある。彼は多くの偽文書を「写し」として制作した。写しであれば、時代が新しいとわかっても信用され

¥500

山中他界観の成立時期

山中他界観というものがある。山中に他界=死者の住まう空間があると想定するものだ。学術的な源流は、おそらく柳田國男の『山宮考』だろう。その後、民俗学者の間では日本古来の他界観の一つとして定着しているようである。実際の山中他界観の例としては、東北地方の端山信仰や、伊勢朝熊山麓の「ダケ参り」、立山の地獄伝承などが挙げられる。

¥500