たとえ選ばれなくても、価値が決められた訳ではない
最近Netflixで「The 100/ハンドレッド」という、海外ドラマを見ている。どんな話かというと…うーん、こういうあらすじの説明は苦手だ。
核戦争の地球から宇宙に逃げてきたけど、酸素が無くなるから地球に戻れないかなぁ、100人を地球に送ってどーなるか見てみよう。そして、その100人がどーやらこーやら地球で生き延びるために色々やっていくよって話。
まだ最後まで見てないけど、面白いドラマだ。この説明では全然面白さが伝わってないけど。
そこで、主人公は人類を助けるために様々な決断をしていく。時には仲間を助けるために、誰かを犠牲にする必要があり、自分と葛藤しながら必死に選択をする。
普段生きていて、人を選ぶことってあるだろうかと思った。
ハンドレッドの中では、医者や技術者は生き残るメンバーに優先的に選ばれる。それは生き延びていくために必要なスキルだから、当たり前だ。
僕はサバイバルをしたことがないから、生死を問う選択にはあったことはない。僕はサバイバルで生き残る術を持っていないので、すぐに殺されるだろう。薬草学でも学んでおこうか。
逆に、自分が選ばれることってのは、いつあるだろうか。
就職する際に、会社へと面接にいく。「わたくしはこんなにも素晴らしい人間ですよ」とアピールをする。「この会社には僕は必要だと思いますけど」と根拠もなくアピールをする。
選ぶ立場の人に自分の良さを伝え、残してもらうために命乞いをするのだ。
すると、数日後、お祈りのメールがくる。
残念ながら〜という文字には、残念な要素など1ミリも入っていない。この世で1番嘘つきな言葉だ。残念ながらと思うなら救ってくれよ!と嘆きながらも文を読む。
すると「お前は必要としていない。生き延びるためにあなたは入りません」と言われているような気がする。
全文を読むことなく、「クソ野郎、あんな会社燃やしてやるからな」と意気込んでみても、やる勇気もなく、ただがっかりとする。
ただ、落選しても他に会社などたくさんある。もし、落ちたら死んでしまうという設定であれば、そんなサバイバル面接であれば、もっと死ぬ気で頑張るのだろうか。
ハンドレッドを見ていても、自分だったら諦めてしまうだろうなという場面はたくさんある。もう流石に無理だろという場面がたくさんある。しかし、主人公たちは強い気持ちを持って困難を乗り越えていくのだ。
「生きたい」という気持ちは、何よりも強いのかもしれない。人は生きるために出すエネルギーが1番強い。
火事場の馬鹿力ともいう。火事の現場にあったことないけど、僕もきっと物凄い力が出せると思う。
会社の面接も生きたいって気持ちで必死に臨めばよいのかもしれない。
「この会社で、この会社を…育てたいんです。僕はここで…‼︎生きていきたいんです…‼︎」
とても凛々しい顔で、ひたすらに前を向き、面接官の問いに答える。生きる希望に満ちて、輝きが身体から溢れている。
「ありがとうございます!」と頭を下げ、部屋を後にする。
生きているって、素晴らしいことだ。
宗教とか、そういう話でもない。何のために生きるとか、そういう難しい話でもない。
生きていくために、生きているのだ。
何を言っているか分からないが、そんな感覚だ。
理由などいらない。それで良い。
そう思ったら、別に落ち込む理由などない。
僕はきっとどこかで必要とされているから。
スマホの通知を見ると、メールが来ていた。
「残念ながら〜」
冒頭文を見て、もう読むのはやめた。
サバイバルの世界なら、僕はもうとっくに殺されている。
まだ死んでいないだけ、この世界は優しい。
大丈夫。
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