融合 意識の統合情報理論
この章ではこれまで、こころの専門家である心理学者たちが考える「こころの成り立ち」や「こころの成長」、「こころの療法」などについて、「integration=融合・統合」という視点から紹介してきました。
心理学は文字通り「こころの学問」であるため、「ヒトのこころが存在している」ことを前提とした理論を認めていますが、現代科学の枠組みの中では、こころの実在を当然のものとして受け入れている科学者は少数派であり、異端者であると言ってもいいかもしれません。
「数量化できないこころを科学的に解明することは不可能である」として、デカルトがモノの論理から分離して以来、こころは科学の世界で鬼子扱いされ続けています。
心理学の枠組みの中ですら、こころそのものではなく測定可能な「行動」だけを対象とする「行動主義学派」が長年の間主流となり、科学村の仲間として認めてもらおうという努力をしてきました。
しかし20世紀後半からの情報工学や人工知能の発展により、心理学だけでなく神経科学や哲学など様々な立場から学際的にこころの問題に取り組む学問領域が次第に広がり、「認知科学」や「心の哲学」等と呼ばれる広範囲のムーブメントが起こっています。
そんな中で注目されているのが、意識の統合情報理論IIT:Integrated Information Theory of consciousnessです。
IITはイタリア・トレント出身でウィスコンシン大学マディソン校精神医学科のGiulio Tononiジュリオ・トノーニ教授が2004年に発表したこころの理論で、国際意識科学会の主催者であるクリストフ・コッホからは、「意識に関する唯一の真に有望な基礎理論」であると評価されています。
トノーニは精神科医であるとともに、睡眠を専門とする神経科学者でもあり、睡眠時と覚醒時の脳の神経活動の研究を通じて、「意識」が生み出されるための条件を導き出そうと考えました。
「意識があるという我々の主観的な経験は何よりも先に最も直接的に知っている」という現象学的考察から、彼は意識に関する3つの公理を提出しました。
公理① 意識の経験は豊富な情報量に支えられている
公理② 意識の経験は統合されたものである
公理③ 意識の経験は構造化されている
そしてこの3つの公理を1つの命題としてまとめ、
「意識を生み出す基盤は、おびただしい数の異なる状態を区別できる、統合され構造化した状態である」と結論しています。
神経科学者トノーニによると、ヒトの脳内にある1000億のニューロンのうち、800億は小脳内にあるとのことです。
しかしこの圧倒的多数のニューロンを持つ小脳は、意識の創発にはほとんど関与しておらず、もし小脳に癌が発見され800億のニューロン全部が摘出されたとしても、運動の困難は引き起こすものの、その患者の意識には影響せず、感覚もそのまま残るのだそうです。
ところが残る200億のニューロンのうち、視床―皮質系が損傷したり摘出されたりすると、その患者の意識は失われます。
視床―皮質系では、それぞれのニューロンが平均1万ものシナプスによって他のニューロンと近距離遠距離に繋がり、網の目状のネットワークを構成して何重もの階層構造を作り出す究極の複雑性と統合性を持っていますが、小脳では左右の半球にあるいくつものローカルモジュールが、独自の任務を果たすためそれぞれ独立した構造をしています。
逆に言えば、小脳のニューロン集団は、それぞれの専門性が強い分だけ多くの数を必要としているということで、各々の集団は刺激に対する反応が早く効率的ですが、全体的な統合性は弱くなります。
また「ある事象が起きたとき、その事象に代わって起こり得たのに起こらなかったことの総数」に比例する情報量は、分断されたスペシャリスト集団の小脳では比較的小さく、ひとつのジェネラリスト集団である視床―皮質系では非常に大きくなります。
このあまりにも大きな情報量を全体で処理するために、視床―皮質系では感覚器官から受けた刺激が意識に上るまでに0.3秒もの時間を必要とするということです。
ニューロン数は少なくとも統合性を持ち情報量が豊富な視床―皮質系が、これらの結果として意識を創発させることになったのだ、とトノーニは説明しています。
ある系に創発する意識を数量化するための新しい単位として、IITでは統合情報量Φ(ファイ)を導入しています。
Φの字の真ん中の棒は「情報」を、丸は「統合」を意味しており、Φの値は情報と同じくビットで表されます。
今のところは脳波計による大まかな測定以外に、Φのビット値を意識レベルとして正確に図る方法は確立されていませんが、近い将来計測機器が進歩して小さなΦ値を拾えるようになれば、ヒトの視床―皮質系だけでなく、イルカやミミズ、大腸菌、杉の木から岩石に至るまで、地球上に分布しているあらゆる意識のマップが描かれるようになるだろう、とトノーニは予言します。
人工知能やロボットの意識レベルも測れるようになり、ことによればヒトの脳のΦ値を大幅に超える惑星規模の意識の存在を知ることになるかも知れません。
そのときこそ科学は、今までのデカルトのくびきから解放され、新たな次元に開かれていくことになるではないでしょうか。