栄養 栄養と食養
姿勢、休養に続く身体的健康の第三番目の要素は「栄養」です。
ヒトがそのからだを創り育て維持するためには、その原材料となる有機物及び無機物(栄養素)と酸素、そしてそれらの物質を変換定着させる仕組みを稼働させるためのエネルギーを必要とします。
またヒトはからだを動かしたり、調子を整え一定状態に保ったりするためにも、常にエネルギーを必要としています。
こうした活動を行うための材料やエネルギー源は、食べ物や飲み物として、からだの外部から内部に取り入れる必要があります。
このからだの生命活動そのものともいえる現象を「栄養」と言います。
栄養は英語nutritionの訳語で、明治期には「営養」とも表記されていましたが、1913(大正2)年に、日本栄養学の父とされる佐伯矩(さえきただす)博士が『日進医学』誌上で「栄生養命」という字義を提唱して以来、「栄養」に落ち着きました。
“生を栄して、命を養す”
世界に先駆けて栄養学という学問の一分野を築いた、佐伯博士の栄養に対する考えは、崇高にして実践的なものでした。
栄養は健康の源泉であり、経済の基本、道徳の基礎であるとして、1924(大正13)年、佐伯博士は私費を投じて世界初の栄養学校を設立し、そこで学んだ卒業生らを栄養の専門家として「栄養士」と呼びました。
栄養士たちは科学的な調査研究をすると同時に、全国各地で社会の人々の栄養改善のための実践的役割を担っていくことになります。
また一方、明治大正年間には、栄養に関連して「食養」が注目されました。
1907(明治40)年、陸軍薬剤監石塚左玄(いしづかさげん)を会長として食養会が創設され、食事で健康を養うための方法を、書籍や療法、健康食品などを通して紹介しました。
左玄は「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」として、心身の病気の原因は食にあると「食本主義」を掲げ、「人類穀物動物論」や「一物全体」「陰陽調和「「身土不二」など、食養学の基礎概念を作りあげました。
また左玄は自宅に「石塚食療所」を開設し、「体育智育才育は即ち食育にあり」と玄米菜食による食養食育を国民に普及することに努めましたが、1909年萎縮腎のため没しました。
石塚左玄の食養によって病弱だったからだを回復させ、後年食養会会長を務めた桜沢如一(さくらざわゆきかず)は、小型飛行機事業で稼いだ資金を注ぎ込んで会を発展させましたが、乗っ取り屋に追われて食養会を脱会し、単身海外に渡って無銭武者旅行を試みながら、食養の理論を発展させたマクロビオティックの普及に励みました。
後に自然食運動やオーガニックフードブームの火付け役となった、マクロビオティックの考え方は、桜沢の海外名ジョージ・オーサワと共に世界中に広まり、今日では400万人もの人が実践しており、日本にも逆輸入される形で伝わっています。
食養会とは別に、三井物産創立者の益田孝を代表として1924(大正13)年「食養研究会」が創設され、1933(昭和8)年には栄養学の母香川綾の「家庭食養研究会」ができるなど、大正から昭和初期にかけては、食事と健康に対する関心が世間一般に盛り上がっていました。
養生会が奨める玄米と香川が推奨する胚芽米、佐伯の七分づき米などを巡って、栄養界食養界入り乱れての「大主食論争」が繰り広げられたのもこの頃の話です。
1939(昭和14)年、国の法定米を佐伯矩博士推奨の七分づき米とすることで、主食論争はいったん決着が着いたのですが、1945(昭和20)年には玄米を主食とする「食生活指針」が公布され、その後アメリカ食文化の影響を横槍に受けて、一転して白米が法定米として決定しました。
栄養学的には全く問題外である白米が、突如法定米とされた裏には、当時新設されたばかりの厚生省栄養課内部における政治的事情があったと言われています。
現在日本人の間に生活習慣病が蔓延し、国民皆健康保険制度が破綻しつつあることのルーツのひとつは、この戦後の優柔不断な主食政策にあると言えるでしょう。
もうそろそろ日本は、日本人本来の、地に足のついた考え方と食生活に立ち戻る時なのではないでしょうか?
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