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近代への分岐点としての鉄。ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(12)

ブローデル『物質文明・経済・資本主義』の読書会第12回のメモ。第1巻の第2分冊に。第5章「技術の伝播」のうちの「鉄」を中心に読みます。

摘 読。

現代からみれば、15世紀、もっと言えば18世紀ですら、鉄という見地からすると、まことにけちくさい時代であった。製鉄に使われていた基礎的工程は高炉とパワー・ハンマーであり、その点では現代と変わりない。しかし、量が桁違いなのである。まさに、「鉄が生産物中の最重要物質になることに成功したとき、それは人類の進化における出来事中の出来事であった」。

しかし、その「出来事中の出来事」は19世紀初頭までは生じていなかった。1800年の時点で、さまざまな種類の鉄の全世界の生産量は200万トンに達したに過ぎず、それすら根拠の怪しいものである。当時の経済文明は、鉄ではなく、織物の支配下にあった。当然、冶金術も伝統的で、古風で、ひどく不安定な状態にあった。自然・天然資源、幸い豊富にあった鉱石、十分だったため市のない森林と水流という変動する力などに左右されていた。それゆえ、鉄の生産は季節単位、地域単位でおこなわれるのが常であった。さまざまな鉄の生産方法が生まれたのは、19世紀も半ばになってようやくあらわれたのである。

そもそも、製鉄術はカフカーズ地方を起点として、紀元前15世紀の頃には広まっていった。それが初期に発展したのは、中国であった。中国では石炭を使った鋳鉄がなされていた。そういった技術は、ダマスコ鋼とも称される質の高い炭素を含有した鋼鉄の製造を可能にし、ヨーロッパにももたらされた。にもかかわらず、こういった技術を開花させながら、中国やインドでその進展は停滞してしまった。鋳物師や鍛鉄工の見事な技量は繰り返しにすぎなくなってしまったわけである。

一方のヨーロッパでは、冶金術はなお遅れた。伝統的な冶金が11世紀以降においても続けられた。ただ、11~12世紀あたりからは水流を活かした川辺の製鉄所や高炉がみられるようになる。シュタイアーマルク地方では13世紀ごろに、水力で動かす巨大な鞴が設置されるなど、14世紀になって銑鉄という技術が発見されたのである。ここから鋼鉄が生産されるようになったのであるが、ただ18世紀末まで生み出されていたのは、厳密には鋼化鉄であった。

そして、徐々に生産規模が大きくなるにつれて、鉄工所と高炉を分離するようになっていった。それが顕著に見られたのがアルプスの水流を活かした生産であった。さらに、高炉の火を絶やさないようにするという生産スタイルも生まれた。こういった鉄の生産能力の(現代的にみれば、微々たる)増強は多種多様な需要を産み出し、地域的な集中をもたらした。とはいえ、これも集中の前段階と呼ぶべきレベルである。集中がみられたのは、河川水路や海上航路の便が得られるところに限られていた。

鉄の生産は1840年ごろにあってさえ、まだ280万トンほどであった。しかし、そのときすでに第一次産業革命は生じていた。それが、1970年代の広義のヨーロッパにおける鋼鉄生産量は7億2000万トンにまで上昇していたのである。こう考えると、ブローデルが取り扱う時代において、鉄が主人公を占めることはほぼなかったわけである。つまり、18世紀まで木材が主人公の地位を占め続けていたのである。

私 見。経営学と鉄。

あらためて、鉄という資材の歴史的展開を概観してみると、鉄の大量かつ安定的な生産と経営学が、完全に歩調を合わせていることを知ることができる。これは、アメリカにおいても、ドイツにおいても同様であった。もちろん、林業や農業における経営実践の知見が経営学に反映されているとしても、である。

経営学、とりわけドイツ経営経済学前史の研究で重要な業績を残している岡本人志は、以下の文献の第1章において、フレダースドルフという人の『すぐれた製鉄所経済のための実践的手引き』なる1802年の文献を、さらに第3章ではブッシュという人の『鉄鋳造・機械建造経営の組織と簿記』なる1854年の文献を紹介している。

また、アメリカのみならず、世界的にみても経営学の祖の一人といっていいテイラーも、製鉄企業での経験をもとに科学的管理法を案出した。

現代社会は鉄なしに考えられないが、それがわれわれの生活を基盤から支えるようになったのは、まだ200年そこいらの歴史なのである。そして、経営学もまた、経営的知見は紀元前からあったにせよ(「経営」という言葉も、紀元前からある)、百数十年、よくて200年ほどの歴史しかないのである。

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