読書感想文「庭の本」世界にたいする手触り リアリティが欲しいわ 旅立ちの話
宇野常寛 著 「庭の本」を読んでいると世界に対する手触りという表現が出てくる。
文脈としては、一部の情報産業や金融業の人々はグローバル化された市場というゲームの中で、プレイヤーとしてゲームに参加し世界に参加する実感を得る。そうでない一般の人々は民主主義、端的には選挙という事態をとうしてSNS上で情報を発信し世界に対する実感を得るのだとする。
「世界にたいする手触り」と表現がいいと思った。世界とは抽象的な言葉であり、手触りとは物を触っている具体的な感じがする。知覚の対象でしかない世界と物を触るという具体性がいい。手触りが伝わってくる、きっと世界とはざらざらしているに違いないと感じさせる。それともスベスベする滑らかなものなのだろうか。なめらかな世界とその敵という言葉も思い浮かぶ。
世界と触れ合っている実感とかけば、近いし、本当は身体を持っている限り物であることから逃れられない。それでも人間は世界を実感することができない。
世界とはスクリーンをとうして、そこに映し出されない限り事件となることはない。世界とは何か、人間の認識とはどういう事態を指すのか、記号となった世界と人間とはどう関係するのか、事件はいつ起こるのか、事件とは共有されなければ事件とは言えないのではないか、さまざまのことが思い浮かぶ。事件はゲームの中に存在するのか、それとも物語の中に存在するのか。
ハンナ・アーレントは人間とは始めることができると書いている。ここに主体を見ることはたやすい。何かの起点となること、それこそが主体の条件だからだ。でも私は何かを始めてもいいのだ。なにを始めてもいい。コートを着て真冬の外に出かけることもできる。真っ白のノートに文字を書き始めてもいい。はじめることが出来る確信は世界の手触りをあたえないだろうか。
始めたことがどこにも残らず、痕跡をとどめなくとも、事件は起こったのではなかったのか。最後に旅立ちの話を置いておく。人生はゲームというより旅に似てる。
僕は旅に出ようと思い立った。春は旅立つにはいい季節だ。夏は暑すぎるし、冬は寒すぎる。冬の寒さの中を歩くのを想像しただけで凍えてしまう。この地方の冬は特に寒い。冬が過ぎ山々の頂から雪が消えるころの緑の中を黙々と歩いていく。まだ日差しも強くはない。これなら行けそうだ。軽装でいこう。トレーナーとジーンズにスニーカーにリュックを担いでという格好だ。これから歩き出せば汗ばむだろう。
人生を例えて旅だという人がいる。山あり、谷あり、上り坂があり、下り坂がある。人生そのものだと言うのだ。自分の意志で前に進まない限り、進んでいかない、そんなところも人生に似ているという。でも僕は人生は航海に似ているという方が適切だと思う。どこかに潮の流れで行き着いてしまう。流されるのが人生だ。