「人間以後」の哲学を読む 耕作放棄地のことなど
「人間以後」の哲学 人新世を生きる 篠原 雅武 緒
人間以後の哲学を読んでいます。この本を読みながらどう書いたらうまく伝えられるだろうかと考えていました。その時に考え付いたのは耕作放棄地について考えればうまく書けるかもしれないと思いました。耕作放棄地とは田畑を耕す人が高齢できなくなったなどの理由で放棄された農地のことです。農業の高齢化は深刻で、高齢者の子は会社勤めであったりして儲かりに高齢者が死んで相続したとしても耕作されないことはたくさんあります。死亡するまでいかなくても高齢で農業をするのが困難になることも多いです。そうすると誰かに貸して耕作してむらうとか、共同の農業協同組合のような組織によって耕作されるなどの方策が模索されます。それでも耕作放棄地ができてしますことがあります。そこはかつては人の手によって耕され人間に有用な作物が作られていたのですが、草が生い茂りもう人間の手を離れた姿となります。そうならないために様々な人がこの農地をどうするべきなのかを話し合います。地権者や営農の人たちがもちろんより良い方法を探すためです。この農地の話し合いは公共圏の哲学を意味してると思います。
ハーバーマスやムフが重視する公共圏とは無関係のものとして存在する。つまり世界は公共圏で議論している人たちにはアクセスできないものとして存在する。にもかかわらず、公共圏との相関で世界が存在すると信じる人たちは、公共圏の外部には世界は存在しないと考えている。
公共圏の哲学とはコミュニケーションの哲学です。あらゆることが議論されその中で正義や真とは何かが決定されていきます。それは資本主義の言葉でもあるし、公共性の言葉でもあります。それが悪いわけではありません。現実とはそういうものでしょう。
でも私がその耕作放棄地を見るとき、この町に忍び寄っている終わりを感じさせます。「人間以後」の哲学では事物といった公共圏の外にあるものとしたものの人間の痕跡を語っています。痕跡とは人間がかつて確かにそこにいたという跡のことです。耕作放棄地を見ながら感じる哀歌のようなものであり寂寥感です。本の作者はこの感覚を頼りになんとか物の世界を語っていきます。他には台風によって壊れた瓦屋根や、津波を避けるために造成される巨大な高台などが語られていきます。静かな終わりです。もう人類が滅んだあとの静かな世界からこの世を眺めその中から哲学を拾い出そうとしています。私は毎日30分ほど歩いていますが、その時の感じをこの本の中で出会ったような気がします。
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