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葛藤の末につかんだもの

私にとって人生のターニングポイントは、アナウンサーからディレクターに転向した時です。
その時は間違いなく、「これは、人生の挫折だ」と思いました。

会社という組織の中にいると自分自身がやり続けたいと思っていても、思うように出来るわけではなく、悔しくても寂しくても、諦めなくてはいけない時があります。

自分の実力や年齢、会社の方針、上司の考え方など様々な要因があると思いますが、組織の中での自分の居場所は残念ながら自分では決められないのです

SNSでキー局のアナウンサーが、他の部署に異動したと言うニュースを見ると、私はついつい自分自身の体験に置き換えて、その人たちの心の内をおもんぱかってしまいます

部署の移動が、自分が望むものであればそれはもちろんラッキーなのですが、私はアンラッキーだと思いました

地方局のアナウンサーはマルチな仕事を要求されます。喋りに関することだけでなく、記者やディレクターとして一つのコーナーを任されて担当するのは当たり前です。でもそのバランスが問題なのです。

私は50代を迎えるまでは、アナウンサーの仕事が7割、ディレクターの仕事が3割くらいでした。しかしある時から、アナウンサーの仕事を卒業してディレクター一本で仕事をして欲しいと望まれたのです。

年齢を重ねた私が必要とされる番組も無く、後輩に道を譲る必要もあり、自分の思いに反して喋りの仕事をやめなければならなくなりました

会社員ですから、わがままは言えません。
嫌ならば、会社を辞めフリー活動を始めるしかないのです。

私はアナウンサーとして現役でこの仕事を終えたいと願う自分の気持ちに、どう折り合いをつけたらいいのか、葛藤の日々でした
自分がキャリアを積んで磨いてきたアナウンサーの技術に自信と誇りがあったのです。

マスメディアの仕事であっても、番組制作とアナウンサーでは大きく違います。人に伝えると言う意味で、目指すものは同じでも、積み上げていくものが違うのです。アナウンサーとして自分の居場所を構築していた私にとって
荒海に放り出されるような感覚でした。

自問自答を重ねて、会社を辞める選択をしなかった私は、制作者として仕事を続けることになったのですがプライドは、ズタズタでした
会社でのキャリアは充分なのに、制作者として初心者の私は、一からのスタートでした
パソコンを使った編集作業を覚える必要があり、分からないことがあれば、年下の人たちに新人として聞かなければいけないのです。一ヵ月間は日々惨めな気持ちと闘っていました。

しかし、私はある日、自分自身の内なる声を聞いたのです。

「アナウンサーとして真っ白な気持ちで入社したあの頃に戻って、もう一度新しい仕事に取り組んでみたらどうだろう、きっと私なら出来る、きっと乗り越えられる、頑張ってみよう、真白な気持ちで」と。
その時、負けず嫌いの精神がメラメラと燃え始めました。
「なにくそ負けるもんか魂」です。

そして50代の新人は頑張りました
一生懸命編集を覚え、これまでアナウンサーとして培った様々なノウハを
取材に生かし、仕事を続けていったのです。
それからの自分自身の頑張りが大きな自信につながりました。


人は幾つになっても、一生懸命に頑張れば、様々な事を身につけることが出来る、諦めないでやり続ける努力をすれば必ず道が開ける」そう考えるようになったのです。

私は制作者として仕事をするようになって、番組作りの一端を担っていたアナウンサー以上に、俯瞰的な目線で様々な事を見ることが出来るようになりました

共に仕事をする仲間たちと番組を作る楽しさを分かち合え、視聴者の皆さんとも共有できるディレクターとしての醍醐味を知る事になったのです。

諦める事なく、真っ白な気持ちで踏み出した一歩が、私を人として大きく成長させてくれました。人生において、挫折からのこの一歩が、私をより強く逞しくしてくれたのです。



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たくさんある記事の中から、私たち親子の「やまだのよもだブログ」にたどり着いてご覧いただき心よりお礼申し上げます。
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