書評 「生成と消滅の精神史」 下西風澄・著
下西風澄の「生成と消滅の精神史」を読みました。書評を書いていこうと思います。
まずこの本はどういう本でしょうか。「精神史」とあるように、人間の精神の歴史を取り扱った本です。この場合の精神とは、心・内面・意識といったものです。ただ主に取り扱うのは哲学なので、哲学的に取り扱われる意識というのが、この本における「精神」に最も近いかと思います。
もっとも、著作中では「精神」という言葉よりも「心」という言葉が使われているので、以下では、「心・意識・自我」といった言葉を使って考えていこうと思います。
この本の始まりはホメロスに置かれています。ホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」から心の原初的な形を探っています。
このあたりの発想は非常に面白いのですが、おそらくはジュリアン・ジェインズ「神々の沈黙」から着想が取られていると思います。作中にも「神々の沈黙」の名が見えます。
ホメロスの世界において心はどういう形を取っていたか。その頃の心は、神々という形が外的なものとして、世界を飛び回るものとして考えられていました。それが、自然現象と繋がっていて、人間の内面と外面世界との対立というのが、今、我々が考えているようなものとしては存在していませんでした。
これはどういう事でしょうか。例をあげてみます。私が、怒りに駆られて誰かを殴るとします。誰かは私に対して怒りを抱き、殴りかえしてくるーーこれは現代の語彙で言えば、私が彼を殴る「意志」があったという事です。だから、裁かれるとしたら、そうした意志を抱いた私という個人が犯罪者として裁かれるでしょう。
しかし、ホメロスの世界ではそうではない。私は、例えば、「怒りの神」が私に取り憑いて、そういう行為を行ったーーそんな風にホメロスの世界では捉えられます。同じように、自然現象も背後にそうした神がいると想定されています(雷が落ちれば雷の神が事象を起こした)。これがホメロスの世界です。
著書ではそこからソクラテスに飛んで、ソクラテスが「心を発明した」と言われています。「心の発明」というのは、要するに、我々が思うような形の心に近づいた、心が個人化したという事です。実際にソクラテスが一人で心を個人的なものにしたかどうかは私は疑問ですが、とにかくも、ソクラテスあたりから私達が思うような「心」がスタートしたようです。
ちなみに先にあげた「神々の沈黙」では、古代の人々は神々の声を聴いていたという風に考えられています。これは理由のない事ではなく、「心を発明した」と言われるソクラテスも、「ダイモン(神)の声を聴いていた」という発言をしています。
さてもこの本を書評するにあたって私は、ホメロスからソクラテスへの転換点を最初に取り上げました。それは、この転換点がこの本の構成上、もっとも重大な変化となっているからです。
実際、その後の心・意識に対する捉え方というのは、哲学上では大きな変化ですが、基本的には個人化した自我としての心をどういう風に捉えるか、という見方に関する様々な変化です。カントは心に先天的な機能性を見たとか、その後のフッサールはそれを修正したとか、色々ありますが、一番大きい心の変化の説明は特に、この古代から抜け出す点となっています。
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さて、こうして説明してきましたが、実際のところ、この本そのものには強烈な主張というのはありません。東大の優れた若手学者が、各時代の哲学者の心の捉え方についてきっちりまとめた本、という感じです。
強烈な主張というのは例えばニーチェの「悲劇の誕生」のようなものです。ニーチェの「悲劇の誕生」の歴史の捉え方は、あまりにも極端で、オーソドックスな歴史の捉え方とはかけ離れていますが、少なくともニーチェの、世界全体をひっくり返そうという彼の強烈な世界観ははっきりと現れています。
要するにニーチェは「思想家」であり「哲学者」なわけです。彼は個性的な存在でした。「悲劇の誕生」はそういう本だったので、同時代の学者からは評価が低かったそうです。
現代においては、東大係のエリートなんかが「天才」「哲学者」というような事になっていますが、たいていは学歴を楯にして凡庸な事を言っているだけ、という印象があります。天才というのは個性的で独自な存在であり、今のアカデミックな世界とは折り合いが悪いのではないか、と私は思います。ニーチェもそういう憂き目にあったわけです。彼は「正当なる学者の世界」から追い出されました。
今の日本のインテリは、片方には形式的なアカデミックな世界への適合を求められ、もう片方では、そこから外れて、商業的な成功を狙い、大衆受けを狙うというコースがあります。それでその両方の要素を持っている人物が「優れている」と評価されるわけですが、独自な思想はそのどちらとも折り合いが悪いように思います。
それでこの本も、「非常によくまとめられて、勉強になる本」だと思いましたが、あえて言うなら著者の心(ここでは"魂"としての心)はそれほど強く感じませんでした。
あえて、"魂"を微かに感じた点をあげるとすれば、ラスト近い、夏目漱石論になります。漱石に関しては著者自身強い思い入れがあったのかもしれません。漱石の自我に対する姿勢を、江藤淳の分析を利用しながら追いかけていく文章には、精神的なリアリティを感じました。
それと面白いなと思ったのはメルロ・ポンティの部分です。メルロ・ポンティはフッサールの影響から現れきた現象学系の、フランスの哲学者です。
「画家は世界によって貫かれるべきなので、世界を貫こうなどと思うべきではないと思う……。」
(「生成と消滅の精神史」p270)
引用したのは、メルロ・ポンティの文章ではなく、メルロ・ポンティが引用した画家の文章ですが、ここにメルロ・ポンティの立場がよく現れていると私は感じました。
下西風澄は、ソクラテスから近代のバタイユやメルロ・ポンティ、漱石あたりまでを連続的に考えています(それ故、中世はほとんどスルーされています)。
それで、近代の自我・心・意識の捉え方においては、我々が自らの「心」に閉じこもり、自我の閉塞に耐えられないといった様子が描かれています。これは間違いなくそうであって、これが近代の主要な問題の一つでした。
メルロ・ポンティの場合はそれを身体の問題としてとらえ、心身二元論という呪縛から開放されようとしています。だから、世界を見ている私が、世界と対立的にあるのではなく、むしろ世界が私を貫くというような根源的な関わりにおいて、世界と自我との融和がはかられているのでしょう。私はメルロ・ポンティをまだちゃんと読んでいませんが、メルロ・ポンティがいかなる武器で、近代の独我論的問題に立ち向かったのかについて、この本を読んで得る事が多かったです。
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それと漱石論も面白かったのですが、この調子で書いていると長くなるので、手短に済まそうと思います。
著者は漱石とバタイユを平行して論じています。悪魔的な思想を持ったバタイユと、日本の正当な作家というイメージのある漱石とはあまり似ている感じはしませんが、実際に下西氏の論を読んでいると、納得するところが多かったです。
得られて良かった知識としては、両者共に、二十代で片方は教会、片方は寺に行って、要するに宗教の傘下に入る事でそれぞれに自我の問題を解消しようとして挫折したという過去があった、という事です。これなどは私も身につまされます。
漱石論に関しては、初期の漱石は「自然」「山中」といったもの、それと「女」に対する、茫漠とした憧れ、夢想、理想を抱いている様子が描かれていますが、それは彼がキャリアを重ねていくうちに消えていきます。この指摘も興味深かったです。これなどはドストエフスキーと同じ道筋を辿ってます。
ドストエフスキーにしろ漱石にしろ、根底的にはロマン主義者ですが、彼らは自らの幻想を破壊する事を自ら許すような強さを後期には身につけていきました。そしてそれ自体が彼らの文学の内容になっていきました。
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他にも勉強になったところはたくさんあります。例えば、クザーヌスの重要性です。クザーヌスは中世のキリスト教思想家で以前から気になっていたが、アマゾンのほしいものリストに入れたまま放置していました。下西氏が「クザーヌスはパスカルの手前の段階の思想家だ」という要約をしていて、(なるほど)と思い、すぐにクザーヌスの本を注文しました。
それと、漱石の話に戻るなら、やっぱりこうして漱石を綿密に分析すると、夏目漱石という人物に日本近代の問題は集中してたのだなと改めて感じました。西欧における近代の問題を漱石はひとりで背負い込んだ部分があり、やはり日本においては漱石が最重要作家だなと改めて感じました。
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さて、ここまでだらだら感想を書いてきたが、全体としては(勉強になった)という感じが強いです。逆に言えば、ヘーゲルとかニーチェのような強烈な思想は感じませんでした。
ですが、そういう「思想」というのは現代の知的(とされている)領域とは相容れないものだろうから、そこまで期待しないのであれば、この本は得るところの多い良い本だと思います。
ただ著者が言及していない部分で一つ気になるのは、現在に置いて「心」の問題は一体どうなっているのか、という事です。AIやコンピュータの問題が論じられていますが、これはそれほど本質的な問題ではないと思います。
漱石においては「自殺するか、気が狂うか、宗教に入るか」と問われた極限的な自我の問題は、今を生きる我々においても、全く解消していません。しかし、これは現代においては存在しないかのような外観となっています。
漱石、バタイユ、あるいは今読んでいるd.h.ロレンスなど、近代の作家はみな、「心」の問題に悩んでいた。ところが現在ではこれらの作家や哲学者のように深刻に問う人は見当たりません。それは何故でしょうか?
私が出した答えは、大衆化と資本主義一強の世界になった事で、心はシステムに完全に掌握されてしまったという事です。下西氏は、キリスト教中世をほとんどスルーしていますが、中世においても社会秩序に個人の心の問題が完全に解消されてしまった故に、下西氏はスルーせざるを得なかったのではないでしょうか。
我々は資本主義というただ一つの神と自己の心を一致させる事を常識としており、それ故に個人の「心」それ自体が、もはや心そのものとして現れなくなっている。問題となるのは世界といかに一致するかであり、その残余としての心は何の意味もありません。
(「自己実現」という言葉が、他者から評価される事しか意味しないという事態が今の状況をよく表しています)
それと関わる事ですが、結局、近代文学とはかつての封建社会において貴族であったりブルジョアであったりした、特権的な階級の人々が担ってきた。それらの階級が崩れる限りにおいて近代文学は姿を現してきました。
ところが、これが完全に大衆化してしまい、フラットな人々になると、存在するのは個人ではなく、ただ「集塊」としての人間でしかなく、それ以外はそこに参加できなかった敗残者でしかないという事になりました。個人としての自立云々以前に、そもそも、個人として感じられるような人間が存在しません。
おそらく、近代の文化人はみな、彼ら自身の未来の敗北を心の奥底では知っていたのでしょう。知っていながらも、彼らは消失していく貴族的な態度の中で自らの文化的創造を織りなしていきました。しかし今やーー貴族的な態度それ自体が笑うべきものでしかないものです。
もはや、"私"は存在しません。ポップソングは「君は一人じゃない」と歌う。確かに、そうです。そもそもで言えば、「君」も「私」も存在しません。在るのは「私達」だけです。これらのポップソングは「私達」に一致し、自己の残骸を消し去れ、と私達に向かって呼びかけているのです。
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下西氏は、そうした現在の状況、現在における「心」の在り方については言及していません。
比べるのはずるいかもしれませんが、私は福田恆存の文章を読んでいて、少なくとも福田には福田の「宿命」が存在すると強く感じました。そしてそれは、漱石の近代的な自我の問題と地続きです。
福田恆存と比べると、私は下西氏の「宿命」というのは著書のどこにも見いだせませんでした。しかしそれは下西氏に限らず、もっと前の世代からはじまっていた事なのかもしれません。
下西氏が世界を見る視点は、自分を一歩高いメタな位置において、様々な哲学者の言説に一つずつ潜り込んでいくというものです。ですが、メタな位置に置かれた自己にはどのような意味でも「宿命」、すなわち、生き、死んでいく存在ーーその認識としての「宿命」は存在しません。
宿命とは自己意識ある個人、ハムレットやパスカルのように宇宙大の自己意識を持った存在が、世界の局所に当てはめられて、そこで一人の個人として生き、死ななければならない事です。その事実のうちに宿命は現れてくる。宿命とは世界の渦中に現れるので、世界を見下ろす高塔の頂点には訪れません。
私は下西氏の著書に大いに学ばせてもらったので、感謝の念を持っていますが、それは(勉強になった)という感じで、一人ののっぴきならない個人の魂と出会ったという驚きとは違うものです。
下西氏が、現代における心の消滅について語らなかったのは、彼自身が実存的な、絶対的な自我の問題を分析し、理解する存在であったとしても、現に「それ」である人ではないからだ、と私は邪推したいと思います。
下西氏は、それなりに恵まれた立場にいる「学者」であって、それ故に、心の消滅については語る必要がありませんでした。というのは、下西氏自体が心を観察する心であっても、自らのただ一つの魂を現実と葛藤させながら生かしていく、そういう存在ではないからでしょう。
もし、下西氏がそうした存在であったならば、彼は自らの心の痛みについて、あるいは福田のように、ロレンスのように語らざるを得なかったでしょう。苦痛を込めて、彼は自らの心が流した血について語らざるを得なかったでしょう。
ですが、エピローグで下西氏が語っている個人的なエピソードに現れているのは、淡い、緩やかな優しさでしかありません。
あたかもそれは戦争が終わった後の戦場の穏やかな様子を語っているようですが、私には、これは戦争を最初から免除された者だけ持つ事のできる特権的な「優しさ」ではないかという感じがどうしても消えませんでした。
…そうした点に、現代の優れたインテリの弱点があるのではないかと私は思わざるを得ませんでした。もちろん、そうした部分を除けば、この本は多くの人に推薦できる優れた本であるには違いないでしょうが。