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"私”と"私”を越えるもの ーーシェイクスピアと古代ーー

 先日、川べりを一人で歩いていたら、雲の上に三日月が出ていた。私はそれを見て、次のような事を考えた。
 
 (ああ、この自然のように、自分が死んでも必ずや自分の魂は誰かに受け継がれるだろう。…もしそうなら、私が私の限界に思い悩む事もあるまい。私は自然の中の大きな流れの一つに過ぎない。私が大輪でない事に何を悩む事があろう)
 
 私は月が雲を離れて独り運行している事に感動したのだった。私が思い起こしていたのはゲーテで、ゲーテは、「私は死を恐れない。太陽が山の向こうに消えても太陽が死んだわけではない。私が死んだとしてもエンテレヒーは運行し続ける」と言った。彼が死ぬ少し前だった。
 
 私は月を見てゲーテの言葉を思い出していた。自然は動き続ける。自然は切れ目がない。連続している。それに区切りをつけるのは人間の習性だ。
 
 人は、世界を切り貼りするのが好きだ。自我というこの存在、これもまた自然に切れ目を入れて作られた加工物に他ならない。
 
 川が昼と夜の区別を割って流れていくように、太陽が山の奥に消えても死なないように、月が雲の裏でも動き続けるように、自然は揺れ動き、突き進んでいく。
 
 私は人生の半ばまでやってきて、自分が大した人間にはなれない事に気づいた。中原中也の詩句
 
  暗き空へと消え行きぬ
   わが若き日を燃えし希望は。
 
 のような感傷的な気持ちでいた。若き頃の夢や希望は今や離散してしまっている。それは遠い向こうで砕け散った。私は何者にもなれなかった。
 
 残るのは私という自我の崩壊である。現代の人々が拠り所にするのはこの自我である。彼らには自我しかない。自我の接続としての共感、自我を価値付けるものとしての権威。自我、自我、自我。私、私、私。うんざりだ。
 
 現代において最も優れている作家として、ミシェル・ウエルベックと伊藤計劃の二人を私は念頭に置いている。二人が描いたのは「自我の崩壊」だった。一人称の語り手、その自我が崩壊していく。
 
 "現代人"である彼らは、自我の崩壊の後、虚無にも似た真空の他、何ひとつ残す事ができなかった。自我の消失、人類の消失の後は"無"だ。正確には無すらもないのだが、いずれにしろ同じ事で、我々は自我という代理神の破壊後、何一つこれというものを掴めないでいる。
 
 何を思い煩う事があろうか。私は死ぬ。それは私の自我の崩壊だ。私は人々の中にあって孤独を感じる。人々の自我の主張が感じられて、私自身も自我を張らなければならいないような気がして、疲労する。誰も彼もが押し合いながら、自我を肯定してもらおうと気張っている。
 
 自然の中に一人でいると、安らぎを感じる。自我というこの殻がごくちっぽけなものに思えるのだ。人々の中にいると私は私の優越とか私の欠点とか、人々の愚かさや賢さを意識せざるを得ない。そんな事は本当は些細な事に過ぎないのに。
 
 ※
 シェイクスピアの解釈について、私はもっぱら福田恆存の解釈に依存している。下には私の勝手な感想を書いていこう。
 
 シェイクスピアの劇には紋切り型なところがある。悲劇にしろ喜劇にしろ、かっちりとした形式をなぞるように動いていく。
 
 この形式・構造の背後に福田恆存は宗教的な要素を認めた。私はそれは福田の慧眼だと思う。
 
 福田によると、古代ギリシャの悲劇の後には喜劇が演じられたらしい。この喜劇はどういうものかははっきりとはしていないが、悲劇よりは内容乏しいものだったらしい。乱痴気騒ぎに近いものだったようだ。
 
 この悲劇→喜劇の進み方は、季節の移り変わりが根底にあるようだ。すなわち、冬という死の訪れの後、春がやってくる。生命は死に、後、生命は復活する。
 
 福田はこの構造をキリストの死と復活にも当てはめている。私はこれは正しい説だと考えている。…もっとも、別に根拠があるわけではない。ただそう直感しただけだ。
 
 キリストは最大の苦痛を受けて死ぬが、神の手によって復活する。死者の復活。これは、冬の死から春の生への移行の模倣だ。こうした自然の変化を模倣する事が人間にとっての劇の本質だった。
 
 しかし現代に生きる我々にはこの感覚がわからない。死ねば全ては終わりだからで、死んだ後の復活などは信じられない。何故だろうか。
 
 おそらく、我々は十分に意識的な存在になってしまったに違いない。要するに、自然から我々はあまりにも離れた存在になった。
 
 意識は灰色である。意識は季節を持たない。現代文学を眺めてみよう。そこにははっきりした物語構造は希薄である。あるとすれば、そういうものが「心地いい」から、そういうものをエンターテイメント作品が採用しているに過ぎない。
 
 意識は自己を反復し続ける。二十四時間やっているコンビニのようなものだ。動き続ける現代の店舗やサービスは必然的に、自然の時間を模倣した過去の祭儀を疎外する。正月や盆休みといった我々の季節性を表すイベントは、二十四時間営業している店とは正反対の存在だ。
 
 意識は物語を持たない。それは、あらゆる物語を自己の意識に吸着させてしまうのである。批評は意識そのものを反映した言語形態だが、批評は構造を持たない。現代のアーティストは、みな批評家と言っていい。彼らは自然から切り離された自己の言語のみを語っているのだ。
 
 ※
 シェイクスピアは近代の初期の作家と目されている。しかし実際には、古代的な要素を十分に残していた。それこそが、シェイクスピアがはっきりと持っている、紋切り型の作品構造に他ならない。
 
 「ハムレット」という作品は後世において、ハムレットという人物の近代性が注目された。それはそうかもしれない。しかしシェイクスピア本人はそんな事は全然考えなかっただろう。
 
 ハムレットという人物は物語の構造の中にかっちりとはめられている。ハムレットの内面がいかに雄大であり、いかに宇宙的であろうと、シェイクスピアは現代の優れた作家らのようにその内面を無限に記述したりはしない。ハムレットはあくまでも劇の登場人物である。彼は一人の人物として作品に登場して、内面を吐露し、じたばたと舞台を駆け回った後、当たり前のように一人の人間として死ぬ。
 
 シェイクスピアが見ているのはハムレットという一人の人間の自我ではない。一人の人間の自我が当てはめられている全体の構造だ。ここには古代の劇の構造が残っている。そしてこの構造は、元を正せば、自然の変化の模倣であるに違いない。
 
 ハムレットはホレイショーに自らの物語を伝えてくれるように頼む。そうして死ぬ。ハムレットは死に、何かは残ったのか。おそらくは、残るのである。
 
 シェイクスピアの他の作品でも同様だ。「マクベス」の最後、マクベスの死後の万歳三唱は勧善懲悪な物語の完結とも見える。しかし、作品の主人公は悪漢のマクベスである。善の側のマクダフではない。
 
 「オセロー」の主人公オセローは悪人でもないにも関わらず、最愛の妻を殺してしまう。この物語から何が読み取れるか? それは人間の相対性である。神ではない人間の限界である。オセローが悪だったから、殺人が起こったのではない。オセローが人間だったから、罪が起こったのだ。
 
 シェイクスピアの作品においては、人間の弱さが全てさらけ出されてもそこで話は終わりではない。何ものかは未だに存続する。続いていく。それがシェイクスピア以降の、自意識を中心とした作家との違いだろう。何かが続いていく事が信じられている。そのような人間を越える絶対的な理念の立場から視線が逆照射される事によって、作品の紋切り型の構造はつくられている。
 
 この「絶対的な理念の立場」を福田恆存が嗅ぎつけたように、「宗教」だと言い換えてもそれほど問題はないだろう。確かに神はいないのかもしれない。しかし神の存在を考えて、そこから人間存在を考える事は無意味ではない。
 
 現代の優れた作家であるミシェル・ウエルベックは「プラットフォーム」という作品のラストで、主人公が死を自覚するシーンを描いている。この小説は主人公の自我の崩壊、その死の可能性が淡々と綴られている。それでは「プラットフォーム」の主人公が死んだ後には、何かが残るのだろうか。…何も残らない。
 
 ただ、ウエルベックはおそらくはあえてその空白を描く事で、現代の我々に何が足りないのかを間接的に示そうとした、そうも考えられる。しかしそうは言っても、仮にウエルベックがどれほど想像力が発展していようと、死の後の空白に入れる何かを描く事はできない。文学の本質というのは想像力の問題ではない。我々が生についてどう認識しているのか、それがいつも問われているに過ぎない。
 
 ※
 話を最初に戻そう。自我の問題にすっかり疲れた私は、冬の月を眺めて、自然の連続性を想った。以上の文章はそこから連想された勝手な夢想に過ぎない。
 
 現代のあれこれは私を疲れさせる。しかし私は同時に誰よりも自意識的な現代人だから、自分を他人に認めさせたくて仕方ない。その事自体にも私はうんざりしているが、かといってどうする事もできない。
 
 性欲や食欲も、遠い目線から見たら馬鹿馬鹿しいことに過ぎないだろう。実験され観察される動物ように、いつかは人間という種も馬鹿馬鹿しい存在だという事が証明されるだろう。ただ、人間は人間である限り、馬鹿馬鹿しい事を続けていくだろう。
 
 私は古代人の自然観が好きだ。現代人の半端な賢しらよりは遥かに好きだ。とはいえ、古代人の死んだ理性には我慢できない。迷妄の中をさまよい続ける姿には腹が立つ。
 
 それでは理性を生かしたまま、古代人の世界観を受け継ぐ事はできるだろうか。
 
 それを実現したのが、ゲーテだったり、ヘーゲルだったり、ショーペンハウアーだったりするのだろう。歴史を、生命を貫くなにものかが理性によって認識される。だが、今から考えれば彼らは十分に神学的、宗教的だった。
 
 今や強すぎる理性は自己の内の言語のみしか聞く事ができない。インターネットを除けば、勝手なつまらない愚痴が溢れかえっている。私、私、私だ。この文章もその一つに過ぎない。
 
 私は三日月を見て、それが雲の裏側で運動している様を想った。不思議と、人間の時間的連続性というのは考えられない。人類がいつまでも続いていく事は私には希望というよりも、絶望に近い。
 
 何故なのかはわからない。…だとすれば、私は、私の魂が受け継がれていくというのも、受け継いでいくのは人とは違った存在だと考えているという事なのかもしれない。私は別にそれで良いと思う。
 
 さて、この駄文はここで終わりたい。私はただ私という自我の存在の終わりと、その先にあるものについて考えたかっただけだ。しかしこういう事については、私は、私と違う他者と一緒にいると、こうした思考を進める事はできない。

 他人、他者性というが、結局はまた違う別の"私"に会うだけだ。"私"の間にあっては、"私"を越えるものはとても考えられない。"私"を越えるものについて考えられるのは、自然を見ている時に限られる。それは"空"であり"川"であり"雲"であり"月"だったりする。そのような形として現象しているなにものかを見ている間だけだ、こういうものについて考えられるのは。

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