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感想記「光る君へ」第11回から第20回まで


観光記の枕話としてこれまでNHK大河ドラマ『光る君へ』の感想を書いてきました。一気見企画の二回目ということで、第11回から第20回までをまとめております。そして今回も記事投稿時点での振り返りを追記しました。かなりの文章量になっていますのでお時間あるときに少しでも読んで頂けたなら大変うれしく思います。あと、長文を読むのが苦手な方やドラマを観ていない人にも楽しんで頂きたいので日常の風景を挟んでみました。

では、感想記「光る君へ」をご覧ください。




はじめに


平安貴族の大河ドラマということで感想の中に宗教や政治が出てきます。話をわかりやすくするため、例えとして今の時代の状況を織り交ぜています。それらはすべて私見であり、問題提起はしておりますが不特定多数に私の思想や理念を押しつける意図はまったくございません。細心の注意を払っていますが不快感を与える表現があるかもしれません。不適切な言葉がありましたらその都度修正して参ります。あと、ここを討論の場とするつもりはありません。見解の相違をご主張されたい方は私と関係ないところで書いて頂けると助かります。相互不干渉でよろしくお願いします。



第11回「まどう心」


"光る君へ"第十一話を観ました。

NHK大河ドラマって生首描写NGじゃないんですね。第一話で道兼がまひろの母を惨殺したシーンより衝撃受けましたよ。もし自分が子どもだったなら間違いなくPTSDになって夜眠れなくなっていたと思います。高御座の首シーン。最初は花山上皇の恨みを表現するためのオリジナルエピソードだと思っていました。感想を書くため色々と調べていたところ解説記事を発見。なんとあのシーンは大鏡に書かれていた高御座事件をそのまま描いたものなんですって。任侠映画でもなかなかないですよあんな脅し。時は平安時代。さもありなん。

コミカルな演出のあと播磨国書写山の圓教寺へ失意のまま都を去っていった花山上皇。次の出番はおそらく花山法皇襲撃事件になるのでしょうか。襲撃事件といえば藤原伊周が第11話で初登場?となりました。のちに藤原道長最大のライバルになる御方です。「華々しい戦描写のない平安時代は盛り上がりに欠ける」なんて言われていますが、この二人の政争バトルは中盤から終盤にかけて大きな見どころになるでしょう。

運命の歯車から逃れられない道長とまひろの恋は、花火のように一気に終焉を迎えることとなりました。折角なので二人の考察を少しお話したいと思います。高御座の穢れに対し毅然な対応を行なった藤原道長。身分の違いを痛感し直秀の死という穢れに囚われてしまったまひろ。穢れに対する二人の対比が恋愛を通して鮮明となりました。生前の直秀はまひろに何度も右大臣家御子息との恋愛は諦めろと忠告していましたよね。死(穢れ)に触れたことで直秀の言葉がより心に深く刻まれてしまい、身分の違いを払拭するため、妾ではなく嫡妻になることを道長に望んだと思われます。一方穢れを気にしない道長は常に現実を見据えています。当然身分の低い娘を"北の方"に迎えることは出来ません。世を変えるほどの権力を手に入れるには血筋も必要とします。現実を直視する道長と幻想を描くまひろの物語。それが"光る君へ"の本筋であると思いましたがどうでしょう。

千年以上の時を紡いできた源氏物語は現代にも通じるものがたくさんあります。権力者にとって結婚はいつの時代も道具に過ぎません。人は血筋で判断するからです。そして巨大な権力の渦で信頼出来るのは血縁者のみ。おっと、政治の話はここまでにしておきますが仮にまひろが正室の座に落ち着いてしまったら源氏物語はきっと作られなかったでしょう。二人が別れて安堵した視聴者は多かったのではないでしょうか。

さて寛和の変が終わって私の関心事は"七日関白"へと移りました。どういう描き方をされるのか今から楽しみにしています。『それぞれの人の心には東野幸治がいる。』創造主ことキングコング西野亮廣さんが某ネット番組で仰られた言葉です。転落劇に胸高鳴る私にもどうやら東野さんがいるようです。

余寒の京都旅「わら天神宮 敷地神社」2.本殿と六勝神社より引用


"飛翔"


ネットの移り変わりはさながら五月雨を集めた最上川の如く早いものですね。キングコング西野さんが炎上したのは遠い昔話。岩橋さんがSNSで暴れ回ったと思ったら、粗品さんと宮迫さんのバトルが始まりあっという間に終結。次の芸能騒動は何か、と心の中の東野幸治はずっと高鳴りっぱなしです。2024年6月時点の私は花山法皇襲撃事件の結末を知っています。描写に若干の物足りなさがあったもののこれといった不満点はなくいい感じにまとまっていました。
そういえば史実どおりだとまひろは藤原宣孝は結婚することになるのですね。藤原道長は一足早く結婚しているので二人とも既婚者になります。しかし想いはきっと変わらないのでしょうね。付かず離れずは恋愛ドラマの基本です。高橋留美子さんの漫画『めぞん一刻』で学びました。

《追記》2024.06



第12回「思いの果て」


ならばどうすればいいのだ

大河ドラマ"光る君へ"第12話観ました。直秀が殺されるような悲しいこの世を変えてほしいけれど妾にはなりたくない。まひろの想いに道長はこう答えましたが私はそこまで重要な台詞だとは思っていませんでした。のちに権力者となった道長はまひろへアンサーを示すことになります。藤原彰子の教育係に任命されたまひろの心情はドラマで一体どのように表現されるのでしょうか。

次回予告では定子を演じる高畑充希が十代にしか見えないと話題になったそうですね。視聴率は10%前後を保っていますが時代背景を考慮すると致し方ないのかなぁって。

余寒の京都旅「平野神社」二.手水舎と境内社より引用


"御神木"


「公約を守らなくて何が悪い」と当選した途端開き直る政治家があまりにも多すぎて、有言実行する左大臣様が有能に見えてしまうのはきっと私だけではないと思います。穢れを否定しながらも結果的にいい意味で死人に引っ張られているんですよね。
まひろと直秀のために腐敗した世を変えようとしているそんな道長ですが、一条天皇と定子の間に御子がもし生まれたらどうなっていくのでしょうね。みんなの想いを大切にしたいけれど権力基盤を万全にしなければ理想を実現出来ません。彼の心境の変化に注目していきながらドラマを楽しみたいです。

《追記》2024.06



第13回「進むべき道」


NHK大河ドラマ"光る君へ"第13回【進むべき道】観ました。

JOJOのスタンド攻撃"キング・クリムゾン"を食らったかのような時の進み方でしたね。四年の月日が気づかぬうちに吹き飛んでいて理解が追いつかない視聴者は少なくなかったと思われます。戦国時代ならまだしも戦争のない平安時代の四年間ってまぁ変化ないですからね。フケメイクするわけにもいかず台詞と新キャラでなんとかするしかなくてどうしようもなかったのでしょう。

まつりごとにおいて大事なのは民よりも家である

天下を取って早四年。気が抜けて呆けてしまった藤原兼家でしたが、息子である道長に対し「政とはなんたるか」を語っている仕草はとても凛々しく見えました。最近のことは覚えられないけれど信念や自分の息子たちに関しては以前のまま。典型的な老いの症状なのでしょうね。同じ道を進んでいたまひろと道長でしたが、四年前の庚申待こうしんまちを境に二人は分かれることになりました。藤原道長は家を守る"覇の道"を、まひろは民を想う"徳の道"を選びました。

そういえば先日『踊る大捜査線』の新作発表がありましたが、こちらも「組織VS現場」で今回の大河ドラマと大変似ている構図です。源氏物語が庶民のための作品であるかどうかはさておいて、真反対の方向へ突き進むことになった二人が幾多の苦難を乗り越えどのように成長していくのか。せめて二人のゴールは同じであってほしい。いい感じでハッピーエンドになることを願うばかりです。

余寒の京都旅「平野神社」四.右近の橘、左近の桜より引用


"中央図書館"

「第13回の自分の感想を見て驚きました。中央組織VS現場の構図は越前編冒頭の展開とまったく同じ。実際難しい問題ではあるんですよね。トップが有能すぎると官僚はついてこれないし、無能すぎると官僚は組織を守ることに奔走し、不祥事を隠蔽するなど急速に腐敗していきます。トップだけでなんとかなるものではないことは、優秀な補佐役が不在の現総理大臣を見れば一目瞭然です。政治を行なうにはトップと官僚を繋ぐ優秀な参謀役が絶対に必要なんです。豊臣秀吉が天下を穫れたのは竹中半兵衛と黒田官兵衛、そして弟の秀長がいたからに他なりません。」
と一生懸命下書きを書いたのですが、為時の愚直さと真面目さがいい方向に作用して、たった二週で殺人事件も地方官僚との軋轢もあっという間に解決しちゃいました。中央と地方の板挟みが越前編の大きな柱になると思っていたので拍子抜けです。

《追記》2024.06



第14回「星落ちてなお」


大河ドラマ『光る君へ』第14回「星落ちてなお」観ました。

民を想う"徳の道"を選んだまひろでしたが夢はあっけなく散ってしまいましたね。農民が教育に熱心になったのは江戸時代からだと言われています。農業の技術と生産性が向上し、寺子屋が登場したことで文字を習う農民が爆発的に増えていきました。まひろの叶えたかった道は数百年先の夢だったんです。ドラマで描かれていたように平安時代の農民はまだ文字を学ぶ余裕がありませんでした。芥川竜之介『羅生門』を読むと当時のイメージが掴めるかと思います。

さて花山天皇を謀略で引きずり下ろした藤原兼家が亡くなり、長男の道隆が跡を継ぎました。ドラマ登場時は凡庸な人間に見えましたが「能ある鷹は爪を隠す」でしたね。摂政となった道隆は兼家の魂が乗り移ったかのように豹変しました。民の安寧を願う藤原道長。彼が権力を手中に収めたときに父や兄のようになるのか気になるところです。

日本史で習った「皇后と中宮の並立」がついに出てきました。摂政となった道隆は権力基盤を強化するため、前例主義と合議制をぶち壊し自分の娘を中宮にしようと画策します。しかしそれは同時に藤原道長とまひろの運命を大きく左右させることになっていきます。(清少納言も)

とまぁ堅苦しい感想ばかり述べてしまってゴメンナサイ。今回の癒やしはやはりロバート秋山さん演じる藤原実資ですね。コントのイメージが強すぎてかなり扱いづらそうなキャスティングに見えましたが、『光る君へ』では彼の良さが最大限発揮されているように感じます。「日焼けしている日記キャラ」という分けのわからなさがいい味出していますよね。主人公たちだけでなく彼の活躍も目が離せません。

新春の散歩日記Ⅶ「箕面萱野駅」より引用


"雲の掲揚"


政の頂点に立っても相変わらずのんびりな藤原道長ですが、豹変するとすればやはり藤原彰子に御子が誕生してからになるのでしょうかね。子に跡を継がせたいと願う心情はどんな親でも持っているものです。中関白家の中宮定子にいくら懇願されたとて最優先すべきは己の家。いくら優しい道長でも外戚の座は誰にも譲れません。
越前編に突入しても存在感マシマシな藤原実資ことロバート秋山さん。彼は時代劇だと豪傑タイプの役がとても似合う人です。そう考えるとますます平安貴族を演じているのが摩訶不思議で、もし十年前にタイムスリップしたならば、ロバート秋山が大河で藤原実資役を演じているよ、だなんて一体誰が信じるのでしょう。吉本芸人枠というくくりでご出演されたのかもしれませんが、今は実資役がピッタリ似合っています。炎上する危険もあった中、彼をキャスティングしたNHKの勇気を称えたいです。

《追記》2024.06



第15回「おごれる者たち」


大河ドラマ『光る君へ』第15回"おごれる者たち"観ました

道隆と道長はこれまで関係が描写されることはほとんどありませんでした。父藤原道兼が亡くなって数年。関白になり驕り高ぶる兄と出世してもなお真面目な弟。弓競べが催されて道隆の子・藤原伊周これちかは、叔父・藤原道長に願いを宣言してから矢を射るという変わったルールを提案します。この対決、実は今後を占う重要なシーンでライバル関係を明確に提示しつつ、未来を暗示するという大きなフラグ立てとなっていました。ドラマは基本ネタバレ禁止ですが今回の大河は史実をある程度知っておかないとほぼ理解できない内容となっているのでそれを踏まえた上で少しだけ背景をお話しようと思います。「我が家より帝が出る」という一本目の矢は多くの人が知る歴史の一つです。二本目の矢に関してはクイズにするとおそらく日本国民の正答率50%くらいの難易度になるのではないでしょうか。道長は御堂関白記という手記を残しています。しかし関白にはなっていません。二本目を道隆に止められたのはそのことを示した演出だったんです。それにしても天皇と同等の権威と権力を手にする関白という身分。知れば知るほど豊臣秀吉の凄さが身に沁みてきます。

女の友情はハムより薄い

まひろとさわの絆は一人の男によりあっけなく崩れ去ってしまいました。夜這いの人違いは源氏物語にも出てきます。当時の夜は今では想像できないくらいの漆黒の闇でした。まぁ石山詣にさわが早々に飽きていたので恋愛のこじれがなくとも価値観の違いでそう遠くないうちに友情は崩壊していたでしょうね。

余寒の京都旅「京都国際マンガミュージアム」より引用


"あいみょん"


さわとの友情話は単なる尺稼ぎだったのでしょうか。その必然性については今も謎のままです。彼女は石山詣にまひろを行かせる舞台装置に見えました。さわが結婚したことで代わりにききょうこと清少納言がまひろの友人になります。まひろが外で活動するには友人という役割が必要で、時代的にも一人で出歩くより友人がいたほうが自然ということなのでしょうね。
こんなことを思ってしまう私って考えすぎなのでしょうか。本来友人関係に必然性なんてないのに。

《追記》2024.06



第16回「華の影」


大河ドラマ"光る君へ"第16話『華の影』観ました

多くの視聴者が期待していた枕草子の有名なエピソード『香炉峰の雪』がついに出てきましたね。ただあまりに唐突すぎてあっけないものになっていました。定子と清少納言、二人の関係をもっと深堀りしてから簾を撥げて雪を看て欲しかったのですが、主人公は紫式部なので仕方ありません。

疫病流行のシーン。これまで活躍していた陰陽師安倍晴明や祈祷師たちの出番はほとんどありませんでした。これはおそらく何らかの配慮だと思われます。コロナ禍が収束してもなおSNSで根拠なき主張をする一部の人たちと、己の道を進むためまっすぐ疫病と向き合った藤原道兼・道長兄弟、そしてまひろ。平安時代の物語のほうが合理的ってなんだかなぁ。ちょっと口が過ぎましたかね。

京都・石清水八幡宮周辺を歩く早春旅「五輪塔・航海記念塔」


"刹那"


2024年3月に男山と稲荷山、二つの旅をしました。大河ドラマを意識したわけではなかったのですが、のちにどちらも「光る君へ紀行」で取り上げられたのでとても驚いています。石清水八幡宮一ノ鳥居扁額の字が藤原行成だったことも、清少納言がお山巡りで二ノ峰で休憩したことも知らずに訪れていたんです。偶然や奇跡って突然不意に来るものですよね。まぁ京都を歩いていたら何かしら平安時代に結びつくものに行き着くので、奇跡と呼ぶのはさすがに奇跡に失礼ですかね。

《追記》2024.06



第17回「うつろい」


大河ドラマ"光る君へ"第17回「うつろい」観ました。

関白・藤原道隆を生き様をみて現内閣総理大臣をイメージしたのは視聴者の中できっと私だけだと思います。国家観はまったくないけれど子に跡を継がせたいとする強い執念は二人に共通するモノです。まぁこういうのってビジネスの世界でもよくあることですし、脚本にそういう皮肉めいた意図はないのでしょうけれど、いつの時代も権力に振り回される人の有り様は実に滑稽であります。下の者にとっては迷惑極まりないことですけれどもね。

天下を手中に収めた者たちはどのように子へ継承していったのか。日本の歴史で一番うまくやったのが江戸幕府を開いた徳川家康になります。彼は鎌倉や室町の反省を大いに活かし約260年続く新体制を構築しました。元気なうちに子の秀忠に将軍職を譲ったのはもしかしたら中関白家の失敗を教訓にしたのかもしれません。

戦後以降の日本は世襲が全くうまくいっていないように感じます。絶大な人気を誇っていた田中角栄の娘、田中真紀子氏はすでに政界を引退しました。トヨタ自動車現代表取締役会長・豊田章男氏の活躍は創業者が意図したものではなくただの偶然でしょう。永遠の命を手に入れたいという秦の始皇帝以来の願いは"さもありなん"と言えます。

中宮定子の気苦労や女の友情など、話したいことがいくつかあったのですが長くなるのでまたの機会にしておきますね。

京都・石清水八幡宮周辺を歩く早春旅「神應寺奥の院・杉山谷不動尊」より引用


"凌霄花"


そういえば皇位継承問題どうするつもりなんですかね。責任のたらい回し、先送り、政治闘争に終止して、憲法改正並みに何も決まらない状況がずっと続いています。事態が深刻になる頃には私はとっくに死んでますので正直どうでもいいことではあるのですが、右派と呼ばれる国会議員までもが自己保身に走り、意見をまとめる船頭がいないので前へ全く進みません。日本が無くなるかもしれないんですよ。今本気にならなくていつ本気になるのでしょう。次回のタイトルにあるように、天皇を中心とした日本が滅亡するかどうかの岐路に立っています。

《追記》2024.06



第18回「岐路」


大河ドラマ"光る君へ"第18話「岐路」観ました。

「まどう心」「思いの果て」「進むべき道」「うつろい」と毎話岐路に立っているイメージですが、制約のある副題にイチャモンをつけるのはさすがに野暮ですかね。今回の注目ポイントはなんといっても藤原道兼の死に様。まひろの母を殺した大罪人が一体どういう最期を遂げるのか。因果応報ザマアミロという展開を期待していたのですが気づけば"可哀想"のほうが上回っていました。

彼は最初、気に食わない者を暴力でねじ伏せる気性の荒い悪人として描かれました。寛和の変では一番の功を挙げたものの関白になれず荒れ果ててしまいます。立ち直りの描写はありませんでしたがおそらく弟道長が献身的にサポートをしていたのでしょう。復帰してからは特に目立ったトラブルを起こすことなく無難に仕事をこなします。氏長者の道隆が病で死去。女院様と道長に推挙され念願の関白の座が舞い降りてきました。さあこれから、というときに彼のもとに死神がやってきます。天下を獲って七日後に人生の終わりを迎えるなんて「百日後に死ぬワニ」よりも哀れ。天下を目前に控えながら嫡子とともに明智光秀に討ち取られた織田信長。本能寺の変に並ぶ非業の死だと思います。

次回予告では"長徳の変"の有名な一場面が映り込んでいましたね。史実にあまり詳しくない私は驚きました。数話に渡ってライバル関係の伊周と道長の二人がバチバチにやり合うと思っていたからです。七日関白のあと中関白家没落は一気に加速していくのですね。個人的に花山上皇のキャラクターが好きだったので再登場とても嬉しいです。上皇が再興した「西国三十三所」は千年たった今も人気となっています。これって源氏物語と同じくらい価値があることだと思うんですよね。偉業に比べてそこまで知名度がないのはやはり女好きが原因なのでしょうか。天皇の座を捨ててまで忯子を愛していたのに他の女に走る上皇。そういうところが嫌いになれない部分です。悲劇と喜劇は表裏一体だと言われてますが、長徳の変では悲喜こもごものドラマが展開されそうですごく楽しみです。

GWの散歩日記Ⅷ「ナンジャモンジャ」より引用


"煌めき"


京都の歴史を勉強していると大きな疑問にぶち当たることがあります。なぜ観音信仰が大流行したのか?火付け役は三十三の観音霊場を再興させた花山上皇になりますが、人気になった経緯は義務教育では教えてくれません。室町時代中期に中興の祖、蓮如上人により浄土真宗人気が大爆発。観音信仰は影を潜めてしまいます。そういえば一向宗って浄土真宗の別称だったのですね。京都大好き人間なのについ最近まで浄土真宗と一向宗は別モノだと思い込んでいましたよ。恥ずかしい限りです。明治時代から戦争終結までは国家神道体制だったので仏教が関わる場は葬儀のみとなりましたが、戦後に創価学会が大流行。1999年に自民党と組み、現在は政権与党として政治を動かしています。元は日蓮宗の一派でした。
時代の節目にいろんなカタチの仏教が庶民を熱狂させ多くの信者を生み出しました。しかしなぜ流行したのか。その背景が語られることはほとんどありません。おそらく分析されるのを信者たちが拒んできたからなのでしょうね。創価学会は池田大作というカリスマのおかげで隆盛を極めたと言われていますが果たしてそれだけなのでしょうか。宗教とその時代背景について今後も調べていくつもりでありますが、非常にセンシティブなテーマなのでここでは疑問だけに留めておきたいと思います。歯切れの悪い締め方でごめんなさい。

《追記》2024.06



第19回「放たれた矢」


大河ドラマ"光る君へ"第19回「放たれた矢」観ました。

廊下に嫌がらせの鋲が落ちていたり、忯子の妹にうつつを抜かす花山上皇だったりと、今回は源氏物語要素多めでしたね。想い人の血縁者で己の願望を満たそうとする話は川端康成『古都』でも見ることが出来ます。少し違いますが、京都宇治が舞台のアニメ『響け!ユーフォニアム』では月永求が亡き姉に似た川島緑輝を慕う描写があります。"誰かの代わりから始まる恋愛"は果たして人として正しいことなのでしょうか。

『源氏物語』でいえば、桐壺更衣の面影をずっと追っている光源氏を許せるかどうかということになります。「最終的にその人を愛せば罪はない」というのが私の考えですが、古都にて玉の輿婚の申し出を断った苗子の気持ちも理解できます。求婚した彼の目線は明らかに双子の千重子に向いていましたからね。大河の話に戻ります。忯子の妹、四の君は一体どんな想いで花山上皇の誘いを受け入れたのでしょうか。私は忯子の代わりなんだ。そう思いながら上皇と夜を過ごしていたとしたら…。妾であっても愛して欲しいと願ったまひろと同じ恋の哀愁を感じざるを得ません。

中関白家没落の始まりとなる「長徳の変」がついに幕を開けました。騒動の首謀者、藤原隆家を演じる竜星涼さんって素晴らしい個性派俳優さんですね。悪名高き朝ドラ『ちむどんどん』では徹底したダメ兄を演じていました。今回はダメ弟役ということでNHKに強い悪意、いや熱いファンサービスを感じました。私はいつも彼の特徴ある眉毛に注目しています。

主人公まひろと道長の動向ももちろん忘れてはいけません。無礼講とはいえ帝の政まつりごとに口出しをしたまひろ。試験によって身分の低い者でもなり上がれる科挙は、天皇家の外戚になって権力を得た藤原家の存在そのものを否定するものです。氏長者になったばかりの道長はまひろに対しどう向き合っていくのでしょうか。来週が大変待ち遠しいです。


《補足》

出自や身分を一切問わない官吏登用資格試験「科挙」は一見素晴らしい制度に見えますが、東大生のほとんどがお金持ちであるように教育環境が整っている家庭でなければ苛烈な競争を勝ち抜くことは出来ませんでした。そもそもまひろが思い描いた理想の官僚制度は重税という形となって現代の我々を大いに苦しめています。国益よりも省益を優先する官僚主義は、家を第一とする藤原兼家・道隆・伊周が進めてきたこととなんら変わりありません。良かれと思って帝に提言したまひろでしたが、徳治主義で国を治める道長に対し水を差す形となりました。

京都北白川ワールドコーヒー「おいしいコーヒー」より引用


"水無月の空"


藤原道長の時代における日宋関係の顛末を私は知りません。私が知っているのは歴史の授業で学んだ平清盛の日宋貿易です。
福井県敦賀市にある氣比神宮が北陸道総鎮守と呼ばれていたのは、朝鮮半島や中国の玄関口であることを朝廷が認識していたからです。ドラマのセリフにもありましたが、越前に貿易港を開くことはとても危険です。都と越前は目の鼻の先にあります。京都は守り難く攻めやすい地形になっています。越前が宋の橋頭堡になったらそれこそ目も当てられません。一方、平清盛が作った大輪田泊(神戸)は山と海に挟まれ瀬戸内海に面しているので大陸側から侵攻しづらい場所になっています。清盛が宋との貿易で莫大な富を得たことで平家は天下を手中に収めることができました。藤原為時にもし野心があったなら、宋との貿易で道長に対抗しうる力を手に入れられたのかもしれません。しかし私は愚直で真面目で私腹を肥やさない為時の人柄が好きです。

《追記》2024.06



第20回「望みの先に」


大河ドラマ”光る君へ”第20話「望みの先に」観ました。

藤原伊周の幼児性が特に目立った回でしたね。袖や爪を噛む仕草や往生際の悪さはまさに「見た目は大人、頭脳は子ども」でした。対して一条天皇は立派な帝になりましたね。母の顔色を伺っていた面影はとうに消え失せ、公卿たちを率い身内にも厳しい対処を行える素晴らしい御上となりました。おそらくドラマにメリハリをつけるため、あえて一条天皇と伊周を教養ある大人と幼い子どもというキャラ設定にしたのでしょう。肝心の主人公、藤原道長は氏長者になっても相変わらずののんびり具合ですからね。伊周はドラマ演出の生贄と相成りました。

前回お話しましたがやっぱり面白いですね。藤原隆家のキャラクター。門を打ち破る検非違使の突入に覚悟を決めて男らしさを見せましたが、史実だと結局出雲国(島根県)へ行かないんですよね。病気を理由に但馬国(兵庫県北部)に留まったという。本当に情けない兄弟です。彼らの器はあまりにも小さいのでたとえ長徳の変が起きなくとも中関白家の没落は必然だったと思われます。

定子に話を移します。

私は親ガチャという流行語が大嫌いです。しかし他にふさわしい言葉が見つからないのであえて使用します。関白の娘であり中宮となった定子は親ガチャ最高ランクSSRでした。一条天皇のご寵愛を受けのちに男子を産んだので人生もSSRと言えます。ただ兄弟運が最悪でした。

強い者も弱い者もいないのだ。強い者よりも弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう。

遠藤周作『沈黙』の一節です。

令和の庶民たちはやれ上級国民だやれ世襲だと騒いでいますが、苦悩は強者も弱者も等しく味わうものであって、平等であることにお互い気づいていません。隣の芝生は青く見えるという人間心理がそうさせているのでしょう。誰もが羨む人生を歩んできた定子でしたが、兄弟の不始末により幸せの絶頂から奈落の底へ突き落とされました。彼女と同じ道を進みたいと願う人は一体どれだけいるのでしょうか。

清少納言という部下であり親友を得たことが定子にとっての一番の幸せだったのでは、と私は考えています。親以外で自分を理解してくれる人はそう多くいません。"身分の壁"がドラマの大きなテーマになっていますが、"香炉峰の雪"の時点ですでに二人の間に壁はなくなっていたと思われます。女の敵は女だと影で囁かれる昨今ではありますが、二人の友情は何ものにも代え難く永遠に語り継ぐべきものだと感じました。

まだまだ話したりませんがこのくらいにしておきましょうかね。遠藤周作の沈黙についてはまた機会があればお話したいです。

春風の京都・稲荷山登頂リベンジ旅「始まりは龍谷大前深草駅」より引用


"春紫菀"


せっかくの機会なのでこの場を借りて遠藤周作『沈黙』について語っていきますね。葉室麟さんの随筆『古都再見』を読んで作品とその後の顛末を知りました。
宗教の本質は人を救うことにあります。それは創始者の願いであり想いでありました。しかし欲に取り憑かれた愚かな人間たちは宗教を変質させていきます。異教徒を殺したり弱者を騙して富を独占したり、宗教は権力の道具に成り果てててしましました。
カトリック教会は『沈黙』出版当初に強い反発を示しました。長崎では踏み絵を踏む結末を不快に感じた教会指導者により禁書と同等の扱いをしたそうです。作品を最後まで読めば踏み絵を踏む行為に納得出来るはずです。おそらくカトリック教会の真意は踏み絵を正当化したことへの憤りではなく、棄教を正当化したことに反発したのではないでしょうか。組織として見れば確かにカトリック教会側は棄教を肯定できるわけがありません。多くの信者がいてこその教会です。どんな理由であれ簡単に棄教を許してしまったらカトリック教会は瓦解してしまいます。組織の保身を理由にすることが出来なくて、踏み絵を踏むことを正当化するなと論点をすり替えたのでしょう。カトリック教会の一連の行動は理解できます。しかし弱者を救うという宗教本来の理念からは完全に背いています。
これはもちろん我々の社会にも当てはまることです。カトリック教会だけを批判することは出来ません。日本の経済界に君臨する日本経団連の動きは『沈黙』に反発したカトリック教会と非常に似ています。中世では御恩と奉公というシステムがありました。今は奉公ばかりを従業員に強制し、税金と社会保障で収入の半分以上を国家に吸われ、多くの日本人は幸福を感じることが出来なくなってしまいました。ハッキリ言って中世以下です。
宗教は人類に必要なモノですが、宗教を必要とする社会はとても危険です。最後に頼るのが宗教となってはいけないのです。室町時代に浄土宗が流行しました。現世を諦めて来世の幸福を願うという理念。生きている時に希望を見出せないなんてあまりにも悲しすぎます。棄教ではなく殉教で使命を果たせという主張がありますが、宗教組織の指導者でそれを実行した人は歴史上どれほどいたのでしょうか。責任を取らない責任者が近年多く見受けられます。九州地方でキリスト教が大勢力になったのは、中央政府から遠い位置にあったことも関係していますが、地方の為政者が厳しい年貢の取り立てをしていたことも原因だと言われています。民が幸せであったならキリスト教という新しい宗教に頼ることはなかったはずです。
人の心はガラスのように脆くて儚いものです。弱ったときに支えるものが必要でその役割を宗教が果たしてきました。しかし人が扱うにはあまりにも影響力が大きすぎたので争いの元になりました。日本は戦争の原因になった国家神道を捨てて政教分離原則を作りました。国家主導の宗教はなくなりましたが、ルールの穴をついて宗教組織が政治に口を出しているのが現実です。しかしだからといって宗教を全面的に否定するのは悪手です。幸福感がなくなってしまった今こそ宗教について深く考えるべきだと私は考えます。どう活用すべきなのか。何をしたらダメなのか。旧統一教会に対する政府の取り組みは大きな試金石です。
順調なときには気づかないことがあります。不調なときこそ気づくことがあります。ハッキリ申しまして今の日本は政治経済ともに絶不調です。このままでは本当にヤバいです。しかし敗戦後のどん底から復活したようにピンチの中にいくらでもチャンスは転がっています。上の方で大変無責任なことを言いましたが、日本は私の生まれ育った国ですから、宗教と真正面から向き合い、数十年先、数百年先もいい方向に進んでほしいです。ちなみにアイドルを応援すること、推し活も立派な宗教です。ムリのない程度に活用することで幸せが生まれていきます。世界の平和ってみんなが幸せになることとイコールだと思いますよ。

《追記》2024.06



あとがき


今回も一万三千文字強という大変長い文章になっていまいました。現在は第23回が放送されたあとなので次回の感想記は当分先になります。もうすぐ折り返し地点となりますがずっと面白いです。楽しいです。定番の展開が多く画期的な描写はほとんどありませんが、平安時代という舞台背景がそもそも難しいですからね。今を生きる時代の人たちが勉強しなくても楽しめるようにするにはこれくらいがちょうどいいんです。もっとこうしろと言っているマニアな人たちがいますが、彼らの主張はもちろん本気ではありません。マニアと大衆が同時に楽しめる作品は天才にしか生み出せませんよ。上の方で少しだけ野球の話をしましたが、野球はマニアも大衆も楽しめる日本の最高エンターテイメントです。時代劇であれば戦国時代と新選組がそれに当たるのですかね。平安時代を舞台にしたドラマなんてNHKの大河以外ではありえませんよ。滋賀県と香川県で重要文化財を立て続けに破壊したNHKではありますが、紫式部を題材にしたドラマを製作してくれたことについては大いに感謝したいと思います。それではまた。


"赤の回廊"


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