夏に散るあのバラードを考えてみる?
最近
今回は中村雅俊の「空蝉」を取り上げたいと思います。2005年にリリースされ、あの長寿番組だった「火曜サスペンス劇場」の主題歌としても採用されました。 作詞が一青窈、作曲がマシコタツロウと聞けば名曲しか想像できませんが、そんな大人のバラードにオツムがこどもの私が挑みます。
日高日高歌心さんの熱唱バージョンをどうぞ↓
ちなみに中村雅俊45周年記念のベスト盤にも収録されています↓
歌い手によって印象が変わる?
中村雅俊と言えば、名優であり、かつ、歌い手としても屈指の存在感であることに疑いの余地はないでしょう。
バックボーンが文学座であることからも、俳優が本業と考えたほうがいいですが、本当に何をやっても"絵になる"、かといって、親分肌のようなタイプでもない…青春ものの主役からイヤミがない存在へとソフトランディングできる器用さをもちあわせたエンターテイナーだと思います。そんな彼が、
赤い糸は僕とつながってたはず
、のラプソディー
音を立てて今日が崩れていった
抜け殻さえ
と歌い始めますから、普通に聴いても、ちょっとしんみりとする大人向けの歌謡曲というか、いい意味でのダンディズムや成熟した色気を感じる方が多いと思います。
しかし、これを一青窈が、
赤い糸は僕とつながってたはず
、のラプソディー
音を立てて今日が崩れていった
抜け殻さえ
と歌うと、中村雅俊と違う印象を受けます。
上手く表現できないのですが、歌詞や楽曲そのものに込められている言霊を直接感じる、そんな感覚でしょうか。
もちろん、一青窈は女性アーティスト、中村雅俊が男性アーティストであること、また歌うキーが異なることを勘案しても、同じ曲なんだけれども、一青窈と中村雅俊で何か別の曲を味わっていると私は錯覚してしまいます。
私の感覚だけなのかもしれませんが、
一青窈が歌う場合、実際に自信が作詞をしたものを歌うので、楽曲がもつ哀しみや愁いを、混じり気がほとんどなく、透明度の高い状態てま表現できる
のに対して、
中村雅俊が歌う場合、楽曲そのものが包含している哀しみや愁いに、独特の色気や大人のゆとりがブレンドされることで、全体としてよりマイルドなバラードとして表現できる
のが大きいのかなと勝手に推測しています。
どちらが歌っても素晴らしさには変化なし
源氏物語にも登場する空蝉、
かの正岡子規も、
『 ぬけがらの 君うつせみの うつつなや 』
と詠むくらい、空蝉から連想する儚さは日本人の心の中に代々刷り込まれてきたある種の美的感覚だと思います。
この感覚は高度にデジタル化された現代社会で一見すると忘れがちなものだと思います。しかし、一青窈、マシコタツロウ、中村雅俊の手によって現代人にも可視化されたことで、単に昆虫の抜け殻の話ではなく、人間の本質的なところは脈々と受け継がれている…乾いた心を振り返る余裕が生まれてくる、そんなきっかけになるために世に出てきた楽曲ではないかと私は考えます。(了)
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