幸福の赤いぞうきん。
うちの母(実母)は一人暮らしだ。
父は11年前に他界している。
母はワンマンな父に振り回されて大変苦労をしてきた。父が亡くなった時、落ち込みはしたもののナンダカンダと最高に今を自由気ままに過ごしている。
母78歳。
ここ最近、学生時代の友人や80近い有名人の訃報が続き、どうやら、自分は死へのカウントダウンに突入したと思っているらしい。
自ら「ファイナル エイジ」と称しながらも、去年はスマホに変え、LINEやインターネットと新しい事にチャレンジしている。
この好奇心がある時点でカウントダウンにはまだまだ早いと思っている。
むしろ、"ファイル"に続く言葉として「ファイナルファンタジー」を想像してしまう私としては母の人生という名の冒険は、まだまだ続きそうな気がする。
しかしながら、それなりの年齢の人間に「ファイナル エイジ」と言われると、それが本気なのかギャグなのか判断に困るところ。
正直、どう反応していいのか声掛けづらいわ。
母の母(ワタシの祖母)も、80代に突入した頃に「私が死んだらテッちゃんに保険金が行くようにしておくしなぁ。」なんて、お年寄りギャグなのかリアル過ぎるボケなのか微妙なトークをチョイチョイ挟んできていたっけ。(87歳没)
マジ笑えない。
あの時も、今も引き攣った笑いをするワタシ。
それを引き継がないで。頼むわオカン。
遺伝子に組み込まれてるの?
そんな母。ここ最近、日課として朝早くに散歩をしている。
日曜と雨が降らない限り毎日だ。
このご時世、おおっぴらに何処かに行くとしてもスーパーくらい。
そのスーパーでさえ"混雑な時間帯は避け〜"だの、"なるべく早く短時間でお買い物を〜"云々と店内アナウンスが流れる。
おしゃべり好きな母なのだが、電話で友人とやり取りするも、やっぱり直接コミュニケーションを取れないというのは仕方ないとはいえ、味気ないらしい。
そんな地味なフラストレーションを散歩で発散しているのだ。
そんな中、同じく夫に先立たれ、一人暮らしのご近所さんから一本の電話。
ちょっと体調を崩し急遽入院をする事になり、明後日、回収予定の町内会費を預かって渡しておいて欲しいとの事だった。
50年ほど前、完成したばかりの新興住宅地に引っ越してきたもの同士、歳も近く、ご近所さんと言うより、もうすっかり古くからの友人。
しばらくして、退院したご近所さんから電話を頂いたらしい。
日常生活に大きく支障は無いが、体調は今ひとつとのことだった。
古くからの付き合い。そして、お互い連れ合いを亡くし毎日を大事に楽しく過ごす同士。
以前なら出くわした時はお互いがポケモンを見つけた時のようにダッシュで出向き、おしゃべりという名のバトルを繰り広げていた。
しかし、今は不要不急の呼びかけに外に出ること自体が億劫となっている。ポケモンの遭遇率も低下。
出会ったとしても、少し離れた所からポケモンボールを数発投げ合う様な会話しかままならない状況。
そんな電話を貰ってから母はそのご近所さんが毎日不便はないか、倒れてやしないか、散歩でそのお家の前を通る時、つい気になる様だった。
かといって、体調の悪い人にちょいちょい訪問や、電話もどんなものかなぁ…と母。
心配だけが積もりに積もる。
ある日のこと、スーパーでそのご近所さんと出会ったらしい。
「ああ。元気そうで良かった!」と、思わず声を掛ける母。
そして、日々心配している事を伝えると、その気持ちにたいそう喜んでくれたという。
それから、母とご近所さんは、ご近所さんの調子が戻るまで、しばらく今までにない一つの新しいお付き合いを始める事にしたらしい。
日課としてご近所さんは必ず玄関ポストに朝刊を取りに行くので、その際に元気なら○と書かれた紙を玄関に貼る。
母は散歩の際に、それを確認したら紙を剥がし、そのお宅のポストに入れる。
「名案でしょー!」と母は嬉しそうに言った。
どこかで昔、そんな話があった様な。
「ああ、"向田邦子の"字のないはがき"みたいやね。」
かなり久しぶりにそのタイトルを思い出し口にした。
教科書の教材になったこともあるのでピンと来た人もいるのではないだろうか。向田邦子さん著の「字のないはがき」
私も教科書でだったか、何かの特別な授業で題材になり知った話だ。
「ああ。でも。今、梅雨なんだからお母さん散歩行かないじゃない。」
そんな素朴な私の疑問に母は
"よくぞ聞いてくれた!"
と、言わんばかりのこの上ないドヤ顔をして鼻息荒く息巻き、
「梅雨の間と雨の日にはね!うちのリビングからあのおウチのベランダがみえるでしょ?あそこにね、赤いゾウキンをぶら下げておくって!」
と、"火薬、羅針盤、活版技術"を一度に発明したような勢いで、(母と御近所さん的)ファイル ナイスアイデアを私に語った。
でもやっていることは、「幸福の黄色いハンカチ」ならぬ「生存の赤いゾウキン」である。
高倉健が泣いてるぜ。お母さん。
ちなみに赤いゾウキンは毎日、玄関掃除に使う雑巾らしい。
しかし、"字のないはがき"方式はポストに返却することで「確認しましたよ。」と、分かるけれど"赤いゾウキン"は一方的なメッセージだ。
と、いうかメールでいいんじゃない?
そんな疑問を母に投げかけると、「メールだと返信を待ってしまう。それに、"そこまで"じゃなくていいのよ。」
「お互いちゃんと生存確認がなんとなく出来て、気に掛けてくれる存在がいるというだけで充分なの。」
「玄関の張り紙は他の人が見たら、ビックリするだろうからポストに返却するけど。」
母はフフフと笑いながら言った。
なるほどねぇ。
川に流す瓶の手紙ような、そんな柔らかいメッセージのやりとり。
仕事だとメールの返信は"早く"なんて暗黙のお約束がある。(私の界隈だけ?)
そんな事に慣れていると、いつの間にか日常の何でもないメールにも、余裕が無い時などは気が焦るのか、ついそれを当てはめている時がある。
友人からのメールまで、そんな事に縛られなくてもいい事だと十二分に分かっているはずなのに。
LINEに慣れてない頃は「既読」が付くから、取り留めのない話にも"早く返信しなきゃ!"なんてよく焦ったっけ。
今は流石にそこまででは無いが、忙しい時には返信するまで頭の片隅のフックに一旦引っ掛かけておくも、やっぱりチラチラとその案件が頭の中で過り、何となく気持ちが急かされる。
気の置きどころのない友人ならば、返信がすっかり遅くなったり、急いて書いたが為、失礼と取りかねられない文章でも良い方に解釈してくれると分かっているのだけれど。
貰って嬉しいメールやLINEが、その便利さに却って窮屈な思考に囚われている時がある事に改めて気が付いた。
昭和の戦中に生まれ、まだ電話交換手が居たような時代から、今や手軽に人と繋がれる時代を経験してきた母。
送信返信に囚われず、今以てゆるく柔らかい、人との付き合いを心得ている。
そういう気持ちでいるってとても大事だわ。
向田邦子さんと山田洋次監督リスペクトの生存確認を目的としたアイデアが途端にとても優しいアイデアに見えてくる。
78歳の"ファイル エイジ"の貫禄は伊達じゃ無いねぇ。
でも、ファイル エイジの文言で私を戸惑わせるのはヤメテクダサイ。
あなたの娘は変な所で繊細なんです。
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