田中親美サンの「平家納経」
田中親美(しんび、茂太郎)は明治8年(1875)京都生まれの書家で、父は日本画家の田中有美。有美は大和絵画家の冷泉為恭の従弟で弟子でもあった。
ちなみに冷泉為恭は幕末の騒乱の中で尊王攘夷派に殺されている。このへんは幕末を生きた大和絵画家たちを描いた津木林洋の小説「とつげん・いっけい」にも載っている。画家たちも生きることに大変だったのだ。
さて、「平家納経」のシンビさんによる模写の模写をするうちに私の中で親しいオジサン「シンビさん」に脳内変換された田中親美は、「よみがえる王朝のみやび」によると、書家の多田親愛(古筆研究の先駆者)に師事、古筆の模写を始め、「紫式部日記」「源氏物語絵巻」ほか数々の模本制作に携わっている書家であり古筆研究の大家だ。ほんとは。でも親美呼ばわりも出来ないし、ついシンビさんにしてしまう。
「平家納経」の再現にあたっても、シンビさんは第一人者として益田鈍翁から託され、国宝である原本を数巻ずつ東京に運びながら模本制作をした。制作は料紙制作、つまり字や絵を描く以前に、金銀をこれでもか!というほど贅沢に、数々のテクニックを使って制作した装飾紙制作に始まる。
料紙とは平安時代に始まった美しい加工装飾を施した紙のこと。金銀の切箔、砂子、雲母、ぼかし染で彩られた料紙の空間に書き散らされたかなの古筆切は切ないほど美しい…。古筆切は東京なら東京国立博物館や五島美術館、出光美術館、根津美術館などで見ることができる。
「よみがえる王朝のみやび」に載っているシンビさんの息子さんのエッセイによると、シンビさんは朝から渋谷の自宅で箔(金銀の箔)を振ったり紙に色をつけたりの作業から行っていたそうだ。箔は極薄く引き伸ばされた金や銀なので、ラップよりも薄く、簡単に静かな呼吸だけでもすぐくしゃくしゃになる扱いにくい素材。なのに高い…涙。ドーサを紙に塗って乾かないうちに箔を載せ、乾いたらまたドーサを塗る。シンビさんは絨毯の上で何十枚もの料紙を乾かしながら進めていたそうだ。
さて、私の模写は「平家納経」の中でも一番有名な「厳王品 第二十七」の見返りに始まった。単なるミーハーというか、これとお経部分しか知らなかったからだ。はぁ。
まず土台となる雁皮紙を板張して、地を塗ろうと思ったが「よみがえる王朝のみやび」を見ても、白かベージュっぽいけど何色なのかわからない!やっぱり写真や印刷の限界はあるよねー!
教室で先生と相談して、雲母(きら)とうす〜い銀泥で塗ることにした。さすがに雁皮紙の紙の色のままではないだろうし、かといって大胆に何かの色を塗ることも憚られる。
雲母(きら)は鉱物を粉末状にしたまさにキラキラした画材。意外に安いので助かるが控えめに塗るあんまりキラキラしないし、塗りすぎると嫌味な感じ。銀泥は銀箔を細かい粉状にしたもので、膠で溶いて使う。銀なので普通は年月とともに黒く褪色していく。はず。なので薄めに塗ったのだった…。