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【超難解】言語の制約 希望は華やかに厳しめ?

こんにちは, ヤク学長です. 本日は言葉の限界について深堀します. 

以前, お話した「自由」の概念は18世紀に西洋で確立された.そんな風にお話をしました,  現在は「自由」の概念が登場してから幾ばくか, いや, 何百年経っただろうか. あおらく数百年ばかりか経過した結果, 既にこういった概念の限界を迎えているとは思えないだろうか?
未来は超自然的に融合しつつあるテクノロジーの登場によって、人間の機能拡張が始まる. そんな超自然的世界の到来を迎えるにもかかわらず、、我々は自由の域を超えるような思想が, 全く登場する気配を示していないことに気が付いて欲しい. 今回はそんなフレーム化した思考の新たなアップデートのきっかけになるような話をしていく.
             ⇓自由について

西洋的思考

幸福の持つ限界

例えば, 近代の「幸福」を例にとって考えてみる事にしよう. 19世紀イギリスのジェレミ・ベンサムの功利主義によると(詰まるところ快楽や幸福をもたらす行為が善であるというもの)「最大多数の最大幸福」は, 数量であるところの定量的に社会全体の幸福を増大させる思想だった. これが次第に幸福の定義が困難にぶち当たっているのは自明のことであると思う.
その後, ロールズの正議論の中にあるような「無知のベール」, つまり, 「不幸を最小化する」社会思想へと転化していった. その後も議論は延々と繰り返されているのはご存じの通りだと思うが、この問題は一向に解決する気配をみせない.
果たして「幸福」という言葉が内包している制約も既に限界を迎えていると思えないだろうか??

詰まるところ、我々を縛り付けるものは何なんだろうかと考えたときに. 

おそらく「言語の制約」といったものをどうアップデートするかがキーワードになってくるだろう. そんなお話…

言語の制約

言葉が本来備えている機能を詳しく見てみると, フレーム化のようなカテゴライズの機能や感情・動的・メタ的な情報の圧縮機能といった機能を代替えしている.

圧縮される前の言葉の意味が持つ現象を定義し, それ自体をそのままアウトプットするような手法にいずれかは終着しなければ, 西洋学的な圧縮された言葉遊びの無限の牢獄に閉じ込められ続けるだろう. 

東洋文明をみてみよう. 東洋文明は言葉が圧縮されずに超越するあり方を長い歴史の中で発展させてきた事例がある. 

日本も近代に突入し、西洋近代の叡智が流入したがいつのまにか言葉に支配されたこの社会は, 東洋的な非言語的な本質を言語的に定義しなければ批判性を得られないという矛盾に晒されている. 

この言語というカテゴライズされたお遊戯は不完全な解釈において常に成立し得ない可能性があることに気が付いて欲しい. 

テクノロジーの台頭

先進的なテクノロジー技術の発展は言語を介せずに圧縮以前の言葉そのものを直接処理するシステムを実現しつつある. ANN(人工ニューラルネットワーク)による疑似脳による非言語的変換は現象同士の直接的な関係性に基づいた情報処理によるアウトプットが可能であることがキーになるかもしれない. 

20世紀初頭のルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン(ヴィトゲンシュタイン)は, 「論理哲学論考」のなかで, その世界を構成しているモノ以外のモノで世界を語れるわけはないと考えた. これは, 言葉が人間の社会の根底に根ざすと定義した. 

東洋的思想 kegonnkyou

ここからは, 東洋的思想の脈々と受け継がれし知見を見ていくことにする. 

非言語的変換システムは東洋文明の古典の知見を紐解く事により, 未来への希望が見えてくるに違いない

時代は遥かの古典まで遡る. 4世紀ごろの大乗仏教の仏典である「華厳経」にヒントが隠されている. 時間も空間も超越した絶対的な存在としての仏という存在について説いた仏典である. 世界の認識のあり方を4段階に分ける.

◇事としての差別的現象界である事法界
◇理としての平等の本体界である理法界
◇現象界と本体界は一体不二であるとする理事無碍法界
◇現象界の一々の現象そのままが絶対であるとする事事無碍法界

https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%B3%95%E7%95%8C-523524

ポイントは一番最後の事事無碍法界が事象と事象の直接的関係性で成り立つ点である. 非言語的変換システムといったものを理解する鍵になるとは思えないだろうか. 
より一般的な世界である事法界やその発展である理法界, 理事無碍法界は言葉の根拠に特定の原理を想定する点では近代の西洋的な形而上学の構造を持つ. 

ソシュール的解釈

言語体系内部でいう所のソシュール的な言語学におけるシニフィアン(意味する者), シニフィエ(意味されるもの)というある種の恣意的な結びつきである意味のない関係に近いとも言えるだろう

それに対して, 現象界の一々の現象そのままが絶対であるとする事事無碍法界は1つのシニフィアン(意味する者)に対して複数のシニフィエ(意味されるもの)が内包された構造を考えている. 

1つの事象には世界の事象の全てが織り込まれ, そこに見えるのははっきりと表れているものの1つに過ぎない. 

この認識のあり方こそが, 今後の世界の超絶的な進化したテクノロジーの融合を施行する東洋的な発展モデルとして考えられるのではないか. 

つまり, 言語によって世界をカテゴライズしてきた理事無碍法界から事象と事象のみが直接的に絡み合う事事無碍法界への契機であると考える . 

もしかしたら、近代的な解決困難とされてきた主要な命題が苦しみや叫び声をあげたとしても, これは東洋的思想の考えをアップデートすることで意味をなさなくなるのかもしれない. 

そんな風に今日も思いをふけるのである..


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