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3052文字、既存の教育と整合的な人はどう扱われるべきかについて、知性倫理美意識の観点から

2024-11-001

例えば、2+3=5を正しいと見なしたとして、算数を前提にしてる場合のそれと大学数学を前提にしてる場合のそれとでは、前者の方がより井の中の蛙的です。
また、水泳の分野でトップになるのと将棋の分野でトップになるのとは両立不能であるように、有限能力である有限者は特化するものを選抜せざるを得ません。

ここから、正しさ断定では不十分で、特化有り様に、ひいては、正しさ断定における井の中の蛙性に、
修正余地なさ(受容に値すると言える為の条件)を持たせる処理の必要性を理解してるケースから見て、理解してないケースはより井の中の蛙状態にあると言えます。


ところで、既存の教育は情報や能力や可能性の獲得推奨を、代替不可能な内外事情にしか応じない実存と獲得喪失有り様との整合を要求する事なく
(内在的な問題解決スタイルである自我や、外在的な問題解決スタイルである文化の引き受け具合含めた特化について、修正余地なさを持たせるよう働きかける側面を欠いたまま)展開してますから 、
個別性の取り違えを文系的な論理飛躍として除去対象にしてる人(標準かどうかで評価するのでなく、

同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の十分不十分をもって評価する人)は、
既存の教育と整合的な人(知性倫理美意識の権威込み)に対し井の中の蛙扱いで接する立場となります。


(有限者は井の中の蛙状態から完全に脱する事などできないので、これは問題状態であるという認識も、これが解決状態であるという認識も、常に疑似的側面が混入してると見るべきですが、
特化有り様に修正余地なさを持たせる事によって、不可避な井の中の蛙性を、ひいては、そこの混入を受容に値するものだけに抑えるのが、この問題の解決と捉えましょう。

この理解の抽象形に相当するのが、内外境界意味する有限性は与件であるけれど、有限性有り様に修正余地がないと言えるのは、
より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小にしてる有限性における有限性有り様だけである、との理解である為、

問題を持つのは問題状態であり、問題を持たないのが解決状態である的な無心系へと誘導する枠組みを真に受けて、この枠組みが持つ疑似性を取り出せないでいるのは、
有限性に対する現象解釈の抽象度が低い為に、いらぬ井の中の蛙性を負ってしまってる証拠です。)



例えば、市場や民主制は、個々事情の集積を割り振りの根拠にする点しか保証してないので、
反映されてる個々事情が帰属操作的なのか帰属修正的なのかについてはどちらもあり得ますから、

搾取(帰属操作の受容強制)に対し否定的と言えるのは反映されてる個々事情における、
存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させない態度と言える、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像にとっての事情の占める割合が過半数を超えてるケースのみです。

(その主体像を受容条件としてない場合、帰属操作を正当化してる側である事実が意味されるので、
実存の無条件肯定が内容の理念を真に受けると搾取する側に組み込まれてしまい、
何らかの搾取を非難しても、搾取Aを肯定しながら搾取Bを否定するご都合主義や奪い合い様相に陥る為、内実確からしさによる説得という本筋を採れません。)


先の実存を可能なだけ増やす働きが付随してないケース込みでそれらを肯定する過剰肯定(搾取の保存に鈍感)も、
付随してるケース込みで否定する過剰否定(搾取の着せ替えによる搾取保存に鈍感)も、
個別性の取り違えを文系的な論理飛躍として除去対象にしていれば防げるわけですから、

文系情報に接した際にそれを除去対象にする人は、既存の教育(主観などの個別性に対する、
同種の他との差異要素捨象は教育する一方で、同種の他との共通要素捨象は教育しない内容)と整合的な人に対し搾取保存の発生現場扱いで接する立場となります。


(権利概念は普通、個別性の取り違えを最小化してる者にも、してない者にも個別性捨象故に同じ資格を与えてしまう為、
例えば、人権と主権の対立構図は、一方への過剰肯定と他方への過剰否定による搾取保存が生じるのに加え、

場に取り出しを要求されてる差異が取り出されるよう、プレーヤー側と大会運営側がそれぞれの立場から、
場の個別性の取り違え最小化含め、協力する的な協力関係の可能性を潰すのにもかかわらず、話をこの次元に留めるのもその発生現場と言えます。)



思うに、理解や実力は、対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像に他ならず、論点はその像が現実の持つ複雑さに通用してるかどうかです。
文系事象の場合(一本の線や一瞬の体の動きに宿ってるその像なども込み)は、

自身が存在するのと引き換えであるが故に雨が降ろうが槍が降ろうがそれにとっては引き受けざるを得ない
(当然、損得差異に振り回される事もない)という意味で現実の複雑さに通用してる要素の取り出しである、同種の他との共通要素捨象に個別性を十分にさらす処理が、

その像に取り込まれてる必要がある為、その捨象を用いた抽象化具体化が十分である事態の積み重ね
(局面次第なものの有り様を局面事情無視で定める、協調系理念であれば泣き寝入り強要の有無によらず肯定する、序列の妥当不当をフェア志向でない人が語っていようと真に受ける、
こうした内実不問傾向を自身の無意識に持たせるのを、ひいては、検討領域を狭めるのを防ぐのにも必要)は、理解や実力の上限化の条件に相当すると推測されます。


したがって、個別性の取り違え(個別性を同種の他との共通要素捨象に十分にはさらしていないが為に残ってしまってる、
引き受けざるを得ないとは言えない部分)を文系的な論理飛躍として除去対象にしてる人は、

既存の教育と整合的な人に対し、通用を行き渡らせる処理が内実次元にだけ展開されてるもの
(個別性の取り違えの有無だけが問題なので、表層形は開放されてる)よりも、

表層次元にだけ展開されてるもの(表層のなめし具合だけが問題なので、個別性の取り違えは、
表層洗練の波及効果によって削られる部分もあるとはいえ、直接的には除去されない為に保存される)の方に価値がある状況を齎す元凶扱いで接する立場となります。


(過大評価を受け取らないとか、中身のないものをあるように見せかける能力を捨てておくといった方針は、
気持ちよく騙されたいなどの責任回避な要求への応答、ひいては、負うに値しないものを負わされる不自由を抑えてもいますが、

フェア志向も場の取り違え最小な個別性に即した割り振りへの支持になってないなら形骸です。
しかし、そもそもフェア志向を知性倫理美意識に先立たせるつもりのない人もいるわけで、

ドーピング選手の参加を許してしまってる大会運営は、理科の実験で取り出すべき差異の取り出しに失敗してる小学生と変わらない為、
その小学生と同じ扱いを受けるべきその種の人達が損得計算や通念的論理性確保に長けていた場合、
ドーピング選手が参加してる茶番レースについてのタイムや順位付けの正確さを誇ってる的な内実を感情選抜や意見選抜、さらには、思考や議論に持たせてるのと同じです。

結果的に茶番の受容をこの場合は知的権威で強化しつつ外界に強いてる形であり、
これを止めてもらうには選抜精度の問題に遡って、場の個別性の取り違えを最小化してもらう必要がある為、既存の教育には頼れません。
既存の教育にしか事実上頼れない状況が続く限り、負うに値しないものの受容を強いられる世界であり続けると認めましょう。)

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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