文系域で用いられる知性が機能不全(フェア志向の欠如故の結論選抜や質有無判定、仮説改善の精度不足)に陥ってきた点を踏まえて、教育者に望む事
2020-10-002
学者レベルでもフェア志向が主流でない事実(フェアアンフェア差を事実上捨象して保障する権利観を齎してるパラダイムは健在)は、文系的な仮説検証(ひいては仮説改善)能力への要求水準の低さを意味する為、
文系域では、言わば、わざわざ自分で5の段までしかマスターできてない状態にしておきながら掛け算頑張ってますと訴えてる形であってもまかり通る状況
(表層反転対処や捨象対象偏向など、限界の明白な知性枠組みへの実質的盲従、その限界の弊害に対する共犯回避の姿勢欠如)が続いてて、
それが、権益対立構造をこしらえた上で権益確保行動とる現象(に疑問が持たれない)としても現れるので、
与件である有限性を代替不可能性という性質の登場をもって受け入れる(諦めにせよ満足にせよ、どこかで止まるポイントがあるという前提で、そのポイントに確からしい根拠を求める)という話が、
埋没してる
(結果、通用性向上の機会を逸し得るし、自由や平等についての解釈も、内在外在に対して代替不可能要素にのみ応じてるかどうかというその話の文脈の、外に出てしまう)ところがあるのだろうと思います。
社会の現状などへの肯定否定が、理想と現実の関係についての確からしい原理
(理想を取り違える程度と犠牲にする程度を抑えてないならバランスが排安易化されてないと見なす、対問題の原理)の提示を伴わずに語られるのも、
同じ現象であると、
例えば、常識に不満を持つにしても、権益対立フィルターを外せてない認知故に、せっかくの常識盲従脱却の機会が、
特定時空性による加工要素を一旦剥いで引き受けざる得ない特定時空性のみを付加し直した(現状での最大限それに近付けた)ものと実際とのずれへの反応でなく、
歪みAから歪みBへの差し替えが関の山な過大価値付けによる騒ぎ立てとしての反応の類に留まるといった、
Aにしか勝てないよりBにも勝てる方が強い的な確からしさに関する単純な話(通用領域問題)が、
理系ノリの越境はじめ、観点設定の失敗により、矮小化してる方を確からしいと判断してしまうような逆の結果を導く構造であると思われます。
なので、教育者には、結論選抜(意見を持つなど)や通用性判定
(通用してない領域の発見は通用性向上の機会にもなり得るわけで、仮説検証能力の低さは日常的な原理把握含めた、仮説をより確からしく改めてく運動性の不全に関わる)の精度が、
言わば、ドーピングによる優勝を許してる(フェアアンフェアのような、場で問うべき差異と実際に問うてる差異とのずれの程度に、扱い差を付けれてない)水準の人ばかり、
実社会に送り出してきた(自他の不当利得に鈍感な人が社会に多くなるほど、競争協調の茶番度も当然高まる)これまでの不十分さ
(十分な根拠があればOKとなる社会に向かおうにも根拠判定の精度が足りてなくてかえって危険である事態の責任、
自他の人生の茶番化と引き換えに利益得るスタイル有りでの多様性と無しでの多様性の間に扱い差付けない害悪、分捕り加担)を認め、
通用性判定の精度にいらぬ限定負わされる事態への敏感さ
(これがないと冒頭の盲従のように、弱い根拠でも、そこの精度下げる枠組みインストールをしてしまいかねない)の獲得を、
教育に先立たせてるか並行する場合もできるだけ早く達成して(ひいては、そこの精度下げるのと引き換えに何かができるようになるパターンを、不当利得忌避の一種として拒否できるようになって)もらうに越した事ないとの理解を押さえるよう求めてく
(通用領域広狭の実際と受ける評価や扱いとの不一致が小さく、存在しやすさしにくさの形骸性が小さい社会の実現への協力要請に当たる)べきでしょう。
ちなみに、不当な扱い発生阻止に対するその人の抽象化程度は、
理解や主張への混入の阻止なり、社会での発生の阻止なり、個々の具体への反応するしないはもちろん、抽象物を具体化する際の具体化条件の吟味にも反映されてるはずで、
パラダイム盲従などによる井の中の蛙的状態(林檎は数えられるけど蜜柑はできない的限定通用事態)故の過大価値付けという形骸な敏感さを、利己利他の別の手前で解決しておく形の、
通用性判定の精度を代替不可能な理由なく下げさせない、この次元から不当な扱い発生阻止に取り組む教育は、個人と社会の対立構図による矮小化の回避でもあるはずです。
例えば、嘘という表層形をもって断罪するセンス(場に合わさない絶対主義であり、場に表層的要素込みで合わせる相対主義とは表層反転関係)も通用性判定の矮小化の現れでしょう。
そもそも認識からして加工の産物(不確定も局面事情次第で確定扱い)ですから、
加工される前と後の関係正常化の上限(加工が肯定される地点)への接近程度が論点(理想と現実の関係における先の話と同じ)であって、
加工の発生という表層形に問題の所在を見るのは論点埋没誘導という有害行為です。
(代替不可能なものは引き受けるという態度は、問題の所在を突き止める上で、候補から外す根拠にもなる。)
つまり、加工される前(抽象物)について、通用領域の広狭と確からしさとの相関、より確からしいものが取って代わる運動性、この二つから成るもの(あり得る具体形パターンを網羅する志向の下での捨象)への限界付与を代替不可能なものに抑え、
加工条件(置かれる場の性質)の割り出しについても同様の話がある、
この構造(理解自体は対象に関する抽象具体の関係構造を十分に確立できた感でしかない為、理解の実質でもある)がそうせざるを得ないだけの理由もなく矮小化されてる現実(欧米的知性に組する事で捨象対象選定に偏向負うケース含む)があって、
カントやプラトンも割り引きの指摘こそすれ、割り引き前と後の関係正常化を導いたとは言えない以上、論点はずっと埋没してきたと見なせ、
逆に言うと、教育次第でこれまでとは質的に異なる時代も全然可能なわけです。
通用領域の広狭と確からしさとの相関、より確からしいものが取って代わる運動性、この二つから成るものへの限定化作用の実体でもある、有限性(上限や外在場)の存在不可避性に対しても、その二つから成るものが機能してる、
この意味で、より確からしいものへの志向から、矮小化してる方を確からしいと判断するなど実質を失わせる類の着目無視(確からしさを問う際の観点)の混入防いでる
(局面に即した着目無視に徹するという、次元設定自在性としての人間性の用い方、上で言う話の外に出てない平等)状態を通用性判定に際し確保する
(そもそも、格差や差別なり、機会と結果の関係なり、平等に関する既存の議論が、着目設定含め、価値は場が決めるとの理解の欠如故の矮小化の産物)、
特に、資質と環境に対し、それらの代替不可能な要素にのみ応じてる結果の注力有り様
(できるできないを局面上の価値から見て評価するのとは別に、盲従や短絡反発を防ぐのにも必要な、表層でなく内実を評価する際の規準)は、
引き受けざるを得ない有限性を確かに引き受けざるを得ないものにしてる有り様でもあるわけで、
上で言う話の外に出てない自由から成る注力傾向と注力の実態とのずれを、通用性判定精度の上限が偽装的に下がってる事態と見なす、
そうした側面を(先の敏感さ獲得がまだな者へのケアとして)教育に取り込みましょう。