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4011文字、論理性および理性はどう捉え直されるべきかについて、哲学に担わせるべきものにも触れつつ

2023-12-005

認識対象は認識者の認識場(種や個人の個別性が持つ偏り)に合わせた加工を受けた形で現象するわけで、
個別性を同種の他との共通要素捨象に十分さらしてなお残る偏りの反映だけに、加工を抑えているいないが論点
(抑えてるなら修正余地がない為、それ以上を求めるのは過剰要求であるし、存在非尊重)であると見るべきでしょう。

同様に、主語の切り出しや主語からの述語の切り出しは、そこでの限定性に修正余地なさを持たせる事ができているいないでもって評価するべき対象であり、
客観性については、修正余地なさを持たせてると言える為の条件である、代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針における外在事情として、
個別性が根拠にならない局面もあり、そこにおいて同種の他との差異要素捨象の下での整合が、対主観等で要請されてるに過ぎないと解しましょう。


つまり、局面と無関係に有り様を定める絶対主義(局面の個別性の差異に鈍感な知性倫理美意識)の弊害として、
記述性における事実との一致不一致問題の肥大化、論理性における主観によるバイアスの無化問題の肥大化(これと引き換えに、文系論理の不在に相当するものとして生じてる、

通用が行き渡ってる状態を保存しながらの表層形変転を、個別性が根拠になる局面でも果たすべく、
相対主義からの脱却でもある先の加工抑制によって、限定理由でもある個別性に修正余地なさという上限的確からしさを持たせ、
限定作用に伴う確からしさ喪失を補填する、という側面の埋没)があるわけです。



さらに言うと、それら肥大化は、せっかくプラトンアリストテレスが、理想現実関係と主語述語関係を連関させつつ取り上げてくれたのに、
以降の哲学者が現在に至るまで、その取り上げ方を、(個別性が根拠になる局面では同種の他との共通要素捨象を用いた、ならない局面では同種の他との差異要素捨象を用いた)抽象化具体化が、
不十分なら見た目に関係なく問題状態、十分なら見た目に関係なく解決状態とする問題解決枠組みでもって捉え直す事をせず、彼らの功績を生かせなかった弊害の一つ、


あるいは、ヘーゲルにおける展開構造への批判を以降の哲学者が、抽象と具体(現実性なり実践性なり物質性なり事実性なり)との間の上下論に矮小化し、
抽象具体の価値対等の下での交互反復(上の問題解決枠組みにおける問題状態と解決状態を、過去現在未来の流れにおけるある一点に対する否定と肯定の差異とする対歴史、
つまりは、解決状態からの乖離を避けてない展開に対し、内実の確からしさを持たない張りぼてとして扱う対歴史込み)へと修正しなかった弊害の一つとして見るべきでしょう。


いずれにせよ、上で見た肥大化は、肯定否定の根拠を、加工抑制の対象である真善美でなく、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関とした上で、
知性倫理美意識を、抽象化具体化の不十分さ解消をもって先の補填の果たされたその時点での帰属修正としてる、

例えば、余裕がない局面での次善の策要請でありかつ余裕が生じて以降も居座ってないケース、
つまり、秩序にフェアを内包させてるケースは別として、反動反発をそこの不十分さが保存された形骸な解決反応と見なし帰属修正対象とする、
帰属修正の働きとして位置付けていたなら、この観点からの検討を哲学に担わせていたなら、防げるわけですから、


対人での印象獲得の時点で原理抽出をしていて、立ち上がってる秩序(組織などの形式込み)は、
場の性質が変化する事もあって常に形骸化し得る中で、文系空間での帰属修正が機能してない証拠として捉えましょう。



また、理性を局面と着目無視設定とを一致させ続ける能力、フェアを場の疑似化してない性質に即してる秩序への支持的態度と解するとして、

次元設定自在性という人間形式に振り回される事により、自身の形式を持ち腐れさせ得るという問題意識
(人間の意識は生を問題解決の束として見た時の、問題解決に対するこの自在性の下での注力的限定なので、意識に対する問題意識でもある)、

さらには、そこの自在性の運用原理となる理性(機能すれば疑似問題や疑似解決に陥るのを防いでくれるこれも、
この自在性によって可能になってる)が、その実質であるフェアを内包できているいないという、当該形式の具体化精度に相当する論点を、我々は持つべきであって、

感情なり欲望なりと理性とがバッティングする像を踏まえてる系の問題意識に対しては、肥大化した前者と形骸化した後者との間の上下論な内容
(前者支持は、不当合理への批判にかこつけて過剰特殊の押し通すロジックによる包摂拒否の形となり、

後者支持はその攻守反転形となる)から、内在場と外在場、どちらに対してもフェアが機能してるかを問う
(フェアを内包させた前者後者の統合を肯定する)内容へと論点を移行させる必要があると考えます。


しかし、内実の確からしさと無関係な張りぼて状況からの、フェアを解決に先立たせる方針による脱却試みであるこれらが目指されるには、
前提として、現象は内在性質と外在性質の統合であり、両性質に修正余地がないほど現象は確からしいという、先の問題解決枠組みと同等な現象観が必要でしょうから、

認識等に対するカント的アプローチには、先の問題解決枠組みの不在が言えて、
この不在の観点からカントについて捉え直す(個別性が根拠にならない局面で要請される個別性捨象に、特化した処理センスのせいで、

理性の実質であるのに、同種の他との共通要素捨象が必要なフェアを持てないし、冒頭の論点も持てない点を踏まえた、
権威の切り下げの必要を認める)のではないカント(狭義の近代始点)への言及は、
カントおよび近代性の影響力に対する過剰な肯定否定を齎すものでしかないと思います。



注1

問題解決枠組み(本文での生理解の下では生方針と同等)を本文で言う内容にすると、
問題発生状態という像の十分な抽象化の結果として、そこで言う不十分さが想定され、

そこから何を切り出してきて、それにどう反応し、それがどういう結果となるかに関して、
代替不可能な内外事情にしか応じない主体像(具体化条件に修正余地なさを持たせたもの)の反映が言える時、
通念的な望ましさとの整合具合に関係なく受容に値する、という(表層性に振り回されてない生に関する)理解に言い換えられると考えます。


ちなみに、この枠組み内容に沿った結果が他人に手を差し伸べてる表層形をしていたとしても、
この枠組み内容が、フェアな割り振りを越えて自他を助けない救済方針(場の疑似でない個別性に即した振る舞いから見た過大反応と過小反応の、
同時否定によって達成される囚われていなさから成る対他者を平等方針、対自己を自由方針とし、これらの採用までしか自身の責任としない態度)を内包してる事情で、

他人に帰属する責任まで引き受ける形にはならない(特に、より確からしいものが取って代わる運動性への阻害最小化を意味する、上の主体像をもってのその運動性との対峙を、
内実として持たせてる為に、課されてる条件の下での上限となってる感覚や振る舞いから、
乖離してる部分にまで応じないだけでなく、越えた救済は人格尊重や存在尊重の破れとして位置づけるまである)し、

仮に手を払いのけられても責任が明確化する為、帰属修正の上限化を目指してる
(帰属関係に修正余地なさを持たせにいってる)この枠組み内容的には特に問題ないわけです。


(帰結やその損得性を気にしない、計算しない方向のものとしてカントを考えると上の枠組み内容との違いは、
同種の他との差異要素捨象の産物への立脚に帰属修正を見てる共通性重視のカントと、
同種の他との共通要素捨象の産物への立脚に帰属修正を見て、誰に対してもその立脚を求める対等性重視の上の枠組み内容との差異に思われますが、

個別性が根拠になる局面での後者捨象に不在を、存在するのと引き換えとは言えない要素まで存在に帰属させる、事実上の帰属操作と認めつつ、
救済が帰属操作を内包してるせいで奪う奪われる関係を保存してしまう点に着目すると、

近代以降のインテリの理論立脚暴走問題も包含可能だろう、上で言う阻害の程度を質として見た時の、量的でしかない志向性の強さを純度と履き違える問題も踏まえる必要が、
したがって、上で言う阻害最小化の手続きを経てない意見表明に疑問を持たないという、
仮説検証側面を矮小化させてる分だけ仮説形成能力が形骸化してる知性構成と、

記憶障害故の強制的な情報遮断によって時間や距離や状況の把握の、ひいては、生遂行の実質を欠いてる主観構成との近さ、
および、理想を割り引く程度を最小に抑えてない現実、という関係構造をもって信仰を構成してしまってる信仰形骸化の阻止試みと重なる注2の理解も、押さえる必要があるように思われます。)



注2

抽象化具体化の交互反復という展開についてのイメージは、無限性と有限性の間の関係構造にも適用する事で、
有限性の登場理由について、無限性が常に確からしさの上限(通用が行き渡ってるという事態そのもの)であるべく仮説改善構造を取り込んでる為(フィードバック対象として具体化という限定性を要請してる為)という、

在るに関する謎系に対し(それらを本文で言う問題解決枠組みにおける問題状態として扱いつつ)
有と無の差異にすら先立つ無限性スタートな存在論の方向に抽象度を上げた
上での説明を、


その取り込みに際して、上限化させた具体化精度の下での具体化結果にフィードバックを限定する
(量はあっても質がない検証情報の仮説への反映に相当する事態を防ぐ)必要性という、

より確からしいものが取って代わる運動性(無限性)を阻害なく反映させた帰結として有限性形態があるべきである理由
(無限性の阻害ない取り込みが有限性の肯定条件である、という非対等性の発生理由)も込みで、可能にしてると考えてます。

ご支援の程よろしくお願い致します。