3288文字、リベラルやリバタリアンに言いくるめられない為に押さえるべき、自由平等や理解力が問題解決と整合的なケース整合的でないケースの差異について
2024-11-004
Aさんが何らかの社会に置かれた場合、Aさんが代替不可能な内外事情にしか応じない実存
(能力なり情報なり可能性なりの獲得喪失有り様が、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小にしてる証拠であるこれを生きてる結果の姿)であり、
置かれてる社会が代替不可能な内外事情にしか応じない主体像だけから成ってるなら、
主体の個別性にも、主体の置かれてる場の個別性にも修正余地がない(例えば、判断の正しさに限界がある等の能力の有限性に修正余地なさという、
受容に値すると言える為の、したがって、自他をはじめとする影響の及ぶ対象に負わせて良い状態にまで持っていってると言える為の条件を持たせるのに成功してる)為、
Aさんの受ける扱いは受容に値します(負うに値しないものを存在性が負わされてない)。
この状態へと持っていく(可能なだけ近づける)問題解決試みは、リベラルやリバタリアンの言ってる事
(存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させてる実存故に存在するだけで外在に対し搾取を働いてる有り様まで、
個別性が根拠になる局面でも根拠にならない局面のように振る舞う区別不全の下でか、個別性の検証からの逃走の下での尊重保障によって、
保障してる内容)を知的なもの、倫理的なもの、美的なものとして扱ってしまうと阻害を受ける
(インテリ等のイメージを左派に結び付けてる空間に対し許容的であると、ある種の搾取の保障について片棒を担いでしまう)、そう解しましょう。
(もちろん、包摂の忌避も、和が損なわれる事への忌避も、場の本質に合わせた結果であれば、言い換えると、具体化精度を最大化させた場合に立ち上がってる秩序有り様であれば、
場を荒らすという表層形だろうと、場を荒らさないという表層形だろうと受容する内実確からしさ着目による表層形開放の方向性を埋没させ、
したがって、表層形の標準性程度や表層形の誰かとの遠近による対象理解からの脱却も埋没させ、
表層形のみが問題になってる局面でもないのに表層形のみで断罪する差別的な方向性に与する有害な反応です。
加えて、具体化精度の論点化放棄、ひいては、改善フィードバックの上限化放棄である、
もっと言うと、有限性が与件だからといって有限性有り様に修正余地がないかどうか、
つまりは、有限性有り様が実際どういうものかに関係なく受容に値するものかどうかは確定してないのに、確定させにいく作業の放棄である、割り引かれ自体の拒否の点で同じです。
また、何ができて何ができないか、幸不幸、優勢劣勢具合といった有限性有り様は具体化結果であり、
具体化結果は、限定を受ける前状態に遡ってから、それが負わざるを得ない限定条件を割り出し、付し直した場合とのズレを、
不十分なものを十分なものとして扱うよう強いてる構図に繋がる部分、あるいは、抽象次元にフィードバックされると抽象次元の改悪に繋がる部分として取り出されるべきものです。
なので、表層の汚れを拭う処理、対象を評価にさらさない態度含むこれで満足するなど、
その取り出しが機能してない理解力を標準であるかのように扱うのは、問題解決を損なう有害行為です。)
問題解決(受容に値する状態へと持っていく試み)と整合してない平等、同自由、この両者から成る疑似対立も珍しくありませんから、
それに付き合わされない為にも、問題解決と整合的な平等とは、存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させない態度(存在してるだけで搾取してる有り様の否定)であり、
理想を割り引く程度を最小にしながら成り立たせてる現実(課せられてる条件上の最善の体現)である、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存を誰もが求められ、誰もがその実存以上を求められる事のない
(したがって、対搾取や最善確保が変化遅速の論点化に先立ってる、もっと言うと、変化遅速の論点化による矮小化を受けてない)平等性、
および、取り違えを最小化させた局面事情と着目無視との合致の下での対他者を内容とする平等であるとしましょう。
(持つ者は持つ者なりの最善を、持たない者は持たない者なりの最善を要求されるなど、
課せられてる条件上の最善要求の点での平等性は、優勢劣勢有り様の肥大化を抑える上に、
そこでの最善が外在場の個別性の取り違え最小化を内包してるなら、場が持たざるを得ない偏りであるところの、場の本質にのみ合わせる具体化精度最大化、ひいては、改善フィードバックの上限化の話へと繋がりますが、
場が持つ偏りと無関係に優勢劣勢有り様を定める試みの一種である、優勢劣勢差異自体を否定する平等性は繋がりません。)
同様に、問題解決と整合してる自由とは、その実存の反映部分以外も込みで振る舞いを肯定する過剰肯定と、反映部分込みで振る舞いを否定する過剰否定の同時棄却に伴う解放や、
同合致(当然、余裕の有無という局面事情と無関係に次善の策を肯定否定したり、明晰曖昧の割合を局面事情と無関係に定めたりは生じない)に伴う解放を、自己に保持させる対自己
(より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害が最小、したがって、検証から逃げ回るのではなく、検証精度の低いもののフィードバックを拒んでる、という意味で修正余地のない個別性、
存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させてる為に存在するだけで搾取してる対外在、および、その責任の発生を防いでもいるこれだけを、
引き受ける有り様から見て負うに値しない問題の、たとえ負うに値するものとして扱うよう権威による誘導があろうともその誘導に付き合う事なく為される切り離し)が内容の自由であるとしましょう。
また、テキスト経験の上限とは、書き手が条件上の最善を振る舞っていて、テキストが置かれた場から受ける偏りを、
場(個々人の認識場であれ、言葉をはじめとする外在的な問題解決スタイルである文化を取り込んでる)にとって持たざるを得ない偏りに抑えてる、という内容の冒頭の受容に値する状態であると考えます。
対して、書き手時空の価値観を読み手時空の価値観で無邪気に断罪する(ある社会が代替不可能な内外事情にしか応じない主体像だけから成ってるならその社会の持ってる文化は修正余地がないので、
同時代の他文化に対してだろうと、糾弾はあくまで、その主体像だけから社会が成ってない点への糾弾が本筋です)、
条件上(置かれてる時空における限界など)の最善でなさを書き手に対し咎めない
(認識対象は認識場に置かれた時点でこの場が持つ偏りを負っていて、偏りに含まれる負うに値しない要素、
つまりは、認識場の個別性の取り違え部分は、認識対象を評価にさらさない態度では取り除けない、したがって、現象学系のアプローチでは不十分なのに)、
こうした対テキストは、上で言う上限とのズレを取り出せない点で評価不全であり、
ポテンシャルの最大発現を阻害する存在性発現阻害の形でしか対象と関われない
(負うに値しないものを負わせてしまうという意味で不当な)理解力の現れであると考えます。
注
代替不可能な内外事情にしか応じない(内外事情の取り違えを最小化してる)実存と能力や情報や可能性の獲得具合との整合を嫌がる(既存の教育論における獲得推奨を真に受けてる妄信状態込み)のは、
ぼったくりな価格設定で売り付けたり、買い叩いたりして利益を上げるのを止めたくないと言ってるのと同じであるように思われます。
(いらぬ特化に鈍感な時点で具体化精度を最大化する能力が機能してないわけで、
大した理由なく死角をつくってる的な通用領域狭め、在庫管理やポートフォリオがいらぬ特化対策と言えるように分野によっては致命傷にも繋がるこれに加え、
改善フィードバックの上限化を放棄してまで目先の利益を取りにいってる形です。)
また、冒頭の状態に可能なだけ近づける試みを阻害する内容の自由平等や理解力の内面化を避ける一環として、
既存の文系学歴(個別性の取り違え具合という内実に対する不問が常態化してる知性倫理美意識を助長する働きが含まれてる)への形骸指標扱いもあると考えます。