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同種の他との共通要素の捨象程度に確からしさ差を見る領域を、無きものにし続けてる形の人達の有害性(社会改善等のネック)を本人達にも分かってほしいという話

2021-12-009

社会改善に関しては、各場(大小によらず)の上に立ち上がってるものに対し、
表層形でなく具体化精度で、つまり、場の疑似化されてない固有性の十全(発現阻害がない)な反映物かどうかで肯定否定できる
(否定ケースへの反応を、自身の内在事情外在事情から成る場での話として同じ判断ができる)人が増えれば良いだけだと期待します。

問題はその十全反映に相当する、場に置かれる(場に偏りを持たされる)前後に関する文系的枠組みが現状、
自力でしか獲得されない環境(これを保全する勢力が屈強)だという点でしょう。

(屈強なのも結局は、誰もが通用領域の広狭に確からしさの、ひいては、肯定否定の判断を頼っていながら、
観点もその判断の対象に含むだけの実力を欠く為に、言い換えると、場に持たされる偏りの過不足に着目無視の設定が振り回されてる、という低通用性の為に、
それのみに頼ってる形になってない言説を、権威が付されていようとも否定できる人を増やしてないからなわけです。)


実際、同種の他との共通要素の捨象能力が育成されてないと
(都合の良いところだけしか見てない覚えてない状態のまま選抜したものでもって、対象を説明できた気になる実力不足を防ぐ為にも、
要点導出とフェア志向とを相補的関係として捉えるところから修正が必要)、

文系的な抽象化具体化の精度が上がらず、理想現実関係(場に置かれる前後関係の一種)の像も安易なものしか持てない、
つまり、理想を語ろうが現実を語ろうが、過保護強要(負わされるに値しないものを強いる)の側面を抱えてしまうのに、
政治系反応も経済系反応もその水準がデフォルトになってしまうのに、育成されない環境に何ら疑問を持たれてないわけで、


疑似な理想や疑似な現実(局面判断等)を持ち出してても、根拠は十分(通用が行き渡ってる)と感じてしまう理解力の産物を、
形骸物(内在場や外在場の疑似込み固有性が反映されたもの、負わせる負わされるに確からしさを求めてるとは言い難いもの)に対しそれを形骸とは理解できない人達が支持する事もある

(限定通用物も、全体枠の設定次第では通用の行き渡ってるもの、つまり、選ぶに値するものになってしまうわけで、
場に持たされる偏りの過不足に着目無視の設定が振り回されてる、という低通用性が修正対象になってない社会の現れ)、

表層上の洗練はあるにしても、この実態以上のものではない現象の入れ替わりな盛衰が、
つまり、過保護強要の着せ替えが、文系域では展開されてきただけと言えるように思います。




例えば、実態からの乖離の阻止を諦めつつ成立を優先するマニュアル対応は、
実態のバラエティに合わせる実力がなく、かつ、実力を上げる余裕もない、そうした局面事情に即してる場合に限り、
マニュアル対応自体において生じてる質の喪失が補填される(通用の行き渡ってる状態は保存される)、そう解するべきと考えますが、

その場合、特化の過不足(具体化の低精度)に疑問を持たない生(妄信系と反動反発系の二択な地平)の下での、
次善の策(本筋の断念)への肯定否定は、どちらであれ過保護強要にしかならないわけです。


ところで、有限の認識能力しか持ち合わせてない(認識場で対象を加工してる)者が、
絶対主義(例えば、感情の無加工表出であれ、それが可能な局面かそう勘違いした、内外性質統合だろうに、
場に合わさないという、統合形でない現象が可能と解してる現象観および実践)を掲げてたら、

自己を棚に上げる過保護傾向や先に見た実力不足の証拠を、自らさらしてるようなものである気がしますが、


都合の悪さから何らかの形で逃げる(例えば、全体枠拡大に伴う再位置づけとは関係なく、都合が良い事にしてしまうなど)有り様に関しても、
余裕の有無のような局面事情を無視してそれ自体を否定するのは、場というもの(内外境界の発生)への否定、
つまり、与件である有限性からの逃避なので、自己否定に思われます。

とはいえ、余裕があってなお逃げるケース(常態化や次善の策への本筋扱い込み)まで含めて肯定するのは、
戦える者が無理のない範囲(フェアな割り振りの範囲)で戦ってくれたら負わずに済むものまで、戦えない者が負う(各自の最善で結ばれてるとは言えない)世界に、

過剰に割り引かれてるものと過不足なく割り引かれてるものとが、言わば、形骸物と実質持ちとが、
同等に扱われる茶番世界(世界の形骸化)に、加担してるようなものでしょうから、


フェア志向(ひいては、同種の他との共通要素の捨象程度に確からしさ差を見る、例えば、着目無視の設定に関してそれを見る領域)に対する否定も、
過不足なく場に合わせる枠組みの範囲でなら問題ない(上位次元で肯定されてる)し、

逆に、既存の文系世界は、その範囲を超えて否定してる(必要な捨象能力を埋没させてる)形なので、
選ぶに値しない状態へと世界を追いやってるも同然である。


既存の教育(その範囲を超えて否定してる形)を通して、その追いやりと引き換えに得られる(教育によって量産される)のが、
井の中の蛙的状態からの脱却を、井の中の蛙的に展開した(井の中の蛙的にしか展開できない)人間

(実験精度の低い実験結果を大量に集めてるかごとき人生を送らされ、内実の確からしさで判断しない為に、
自他の有限性形態に対しても含めて、事実上表層形だけで喜んだり、断罪する人)、つまり、


フェア志向(内実が確からしいのなら都合の悪さにも閉じない態度)はじめ、内在場や外在場の疑似化されてない固有性に即した割り振りへの支持もそこに含まれる、代替不可能な内在事情外在事情にしか応じてない像、
それと獲得や信頼判定との整合
(獲得するしないや距離を取る取らないに、内実の確からしさを持たせる処理)を考慮されずに、情報等の獲得を促された結果できあがる、

全体枠が量的には拡大したけれど、質的には大して変わってないという意味で、井の中の蛙的な対象位置づけを、
形骸でない(実質十分な)知性の産物と疑わずに外界に押し付けてくる人間である。


そう解釈して、通用領域の広狭と確からしさとの相関にのみ頼り、代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない像のみを主体に求める、
この方向に文系的側面を修正する必要があると捉えるべきかと思います。




また、質喪失の補填については、より単純に、
全体をカバーできてる状態から一部分への注力へと移行した場合、
残された領域への対応力を下げた分だけ失われた存在通用性は、限定した理由の代替不可能性(どうであれ引き受けざるを得ないもの、という通用性)によって補填が可能
(理由次第で通用量の保存は可能)という構造が言えて、

この構造(より正確には、何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、この両者の最大限化枠組みによる、選ぶに値する状態の保存)に、
理想現実関係(プラトン時点で提示されてる割り引かれ構造)が落とし込まれずにきたから、

プラトン以来の哲学は現在でもなお、安易な理想現実関係の像の着せ替えをしてるに過ぎず、
過保護の追認の域を出てない(捨象観の刷新から修正が必要)のだと考えます。


そして、その注力を意識(注力的問題解決)として捉え直す事で、特化の過不足に疑問を持たない生が、

実験精度の低い実験結果を仮説にフィードバックする処理に相当する作用を、無意識に対し働かせ続け、
疑似部分を無意識(世界観にも波及)に対して背負わせ続けてきた産物としての自己による、
世界に反応すべき部分も取り違えた生を、世界の上に立ち上げてる
(先の最大限化枠組みとのずれ部分、つまり、いらぬ飛躍と見なせる否定対象として扱うべき部分までも現象させる)原因になってる点、


特化の過不足を否定する姿勢や能力の獲得支援を組み込んだ教育(への修正)が、
選ぶに値する状態へと人生を持ってく方向性だけでなく、世界や有限性との関係を改善する方向性をも内包してる点

(2+3は10的な世界像の修正含む、仮説の確からしさ向上の側面だけでなく、
場で受ける扱いの反映による言葉の意味合いやニュアンスの変化のような、単なる変遷と言える側面も、
抽象具体間の行き来である以上、抽象化具体化の精度を論点とすべきは同じ)、


それらと共に、その獲得のない教育を保守したり、前提にする有害性
(同種の他との共通要素の捨象程度に確からしさ差を見る領域を、無きものにし続けてる形の人達の有害性)が、
(本人達にも)分かりやすくなると期待します。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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