無題0

理解力の量的側面は学歴で測るとしても、理解力の質的側面はフェアを越えて助けてしまうか否かで判断しよう(インテリ層の健全化にも必要)

2020-1-002
中国のインテリに関するスレへの投稿内容:


理解力の量的側面は学歴(学力)で測るとしても、
質的側面はフェアを越えて助けてしまう(自分含む)かしまわないかの有り様で見るべきと思います。
その有り様は、いらぬ飛躍を含んでる部分に捨象対応できるかどうかに関する、倫理方面の現れであり、
フェアを越えて助ける、つまり、アンフェアに得る事態を相手に齎す(悪人化を仕向ける)ケースも込みの、
愛や善行に質の疑問を持ってない時点で少なくとも、
林檎は数えられるが蜜柑はできない、3までは数えられるがそれ以上は無理といった原理の未獲得な状況を、
その捨象対応について示してるからです。
(フェアを場の本質に即した扱いへの支持と規定すれば、差異への大騒ぎと見て見ぬ振りのどちらも否定し、
場にとり自然なリアクションを選択する機会さえあればフェア志向化は可能な為、質的側面は後天的です。)

理解力に質を欠いてるという意味で、質を伴わないインテリが存在できたりその多寡に価値を見るのも、
主体の内実(フェアアンフェア等)を事実上不問とする近代枠組みが現世界の基盤だからで、
フリーライダー(罰逃れ含む)により財や地位を築く国や個人が、
世界の基盤をアップデートしてないせいで生じてる現象に過ぎない(捨象対応を齎す理解)のと同じです。
我々が為すべきは、既存の基盤上での優劣を気にしたり、土俵そのままで策を講じるに留まる事なく、
近代で実質止まってる欧米の、そして彼らに主導され形作られた現世界の倫理や知性を、世界の基盤を、
より確からしい方を選ぶというだけの反応としてアップデートする(通用領域を広げる)事と解しましょう。

デカルトやホッブズにより明晰化された主体像にしても、それに先立つヒューマニズムにしても、
キリスト教の中世的変容(告解や罪源、教皇による防衛や拡大の戦争等)の解消欲求の域を出てません。
人権主権で現実回してくスタイルも、フェア主体アンフェア主体を区分けせず保障する権利観である限り、
博愛精神や非攻撃性の、社会への反映に際し生じる問題(求め続ける者や非武装偽装の存在可能性)を、
つまり、現実が持ってる複雑さとキリスト教が持ってるロジックとの間の距離を、
解決はしない(通用領域に問題ある)にもかかわらず、近接する理念の質に疑問あるままの価値普遍化伴い、
世界の基盤(人権主権のパワーバランスに解決を求める問題意識含む)となってしまってるわけです。

同様の構造は知性でも言えます。
ガリレオ(アリストテレス的演繹の克服)以降の科学の成果と相まって、
(判断や国家権威から)剥ぎ取るという明晰化経緯故に内外分離に主眼置く(内在不問外在軽視)主体像は、
同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象の内、前者(主観や局面へのそれは理系で必須)に特化した、
つまり、場に合わせて両者を使い分ける具体化センスを実質欠いた知性の、
近代以降の主流化を堅固なものにした形でしょう。
しかし、内在の性質と外在の性質を代替不可能化させた上で統合させる、という内外関係への志向があれば、
プラトン(やカント)が示した分離への解答を、抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究とできたはずで、
それが正答なら、アリストテレス(プラトンの対抗者)に関する根本問題を解決できない事態とその弊害が、
主体像により作られてる状況下で欧米的知性がその偏りへの理解もなくインフラ扱い受けてきたと言えます。

我々は、Aにしか勝てないよりBにも勝てる方が強いといった、通用領域の広狭と確からしさとの相関を、
何かについての確からしさを問うという形で具体化させてるわけで、
特定の時代の事情を反映した主体像が倫理や知性にいらぬ限界与えてる世界を終わらせるべく、まず、
そこの問いの的確さ(いらぬ偏りの有無)が帰結の妥当不当を決めるという問題意識を押さえましょう。
解決の対象(身体と社会と自然の間でも相互作用有り)やスタイル(自我と言語等文化とパラダイムも同)、
短期長期のそれらにより帯びる、問いの偏りを抑えるのが、いらぬ飛躍を含んでる部分への捨象対応だとし、
それを内容とする倫理や知性が、主体の規定を機能させてる、という状態を基盤とする世界に替えましょう。

そして、抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究を、有り様規定や性質把握に持たせてる、かつ、
問われるべき事(場の本質)と捨象の合致配慮を、リアクションや次元設定に持たせてる倫理や知性による、
場の性質を損なわないように形式や帰結を組み上げる管理能力(主体も被管理立場になり得る)や、
仮説と実証の関係なり同一性と表層変化の関係なり、抽象と具体を行き来させる処理能力(主体も対象)の、
機能不全解消がそれに相当すると期待します。

(歴史における責任の論点を、上の処理能力が機能してるしてないとする。
特定の産業から乖離してない状態ではなく、
需給事情(場の性質)が、フェアの帰結な損得や役回りを引き受ける主体の個々事情から成ってる状態を、
欲が過不足ないという意味で、いらぬ飛躍のない経済とする。
その上で、理解力がいらぬ飛躍を含んでる部分への捨象対応を備えているいないに論点を限ってるなら、
インテリ批判も、フェア志向(フェアを越えては助けないとの倫理的態度)の欠如に対する批判と重なる為、
一応、資本主義が本来受けるべき批判、知性健全化から世界の基盤のアップデートまで射程に収めた批判に、
繋がってる形ではあると思います。
そう考えると、上の両能力に関する不理解がインテリへの過剰な肯定否定を生んできた原因で、
そこの不理解解消がインテリの在り方への誤解を正し、インテリ層の健全化にも資すると言える気がします。)

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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