教育者が寄ってたかって近代性を押し付けてくる状況(既存の学問世界が展開してるプラットフォーム囲い込み)の修正について
2021-4-004
例えば、ある人が何かを指差したとして、何を指してるかやどんな意図なり文脈があるかを把握する(こちらの局面把握次第では大雑把な処理もあり得る)といった話とは別に、
その人が最大限代替不可能化させた内在事情外在事情のみを引き受けてると言えるなら、その人の振る舞いの影響は外界が負わされるに値するだけの確からしさを持つとの前提の下、そう言える程度を把握し、
影響がこちらにとって損失系であっても、そう言えるなら引き受けるべき類、利益系であっても、そう言えないなら受け取らないでおくべき類として位置付ける
(こちらの余裕の有無など、局面事情次第では具体的反応は位置付けの逆もあり得る)、
そこまで含めるのが理解作用にとって望ましい(不利益回避や利得の妥当不当性見分けにも通用が及んでる)とすると、前者に留まるのは、
同種の他との共通要素の捨象処理が、事情に対し効いてるかの判定能力の精度獲得(自己の資質が外界に与える影響に上で言う確からしさを見出したとして、そこに実質を与える上でも必要)までの、
次善の策(現実が持つ複雑さに対応できてないという意味で、抽象具体の確からしい関係構造を確立できてない段階において、自己判断に代わって要請されるマニュアル対応のようなもの)
と解するべきでないかと思われます。
既存の教育で育成される理解力が前者に留まってる現状では、ある種の実力の向上に向かうだけの余裕があるにもかかわらず後者への移行を試みない場合、
対不当利得が形骸的な内容である対社会を植え付けられてる事態に置かれて、その限定作用を必要最小限に抑える対教育を生きてこなかった
(量獲得に有利な妄信的態度と引き換えに、過剰限定受けてる生を自己に許してきた)と見なされても(同ケースの再生産に道をあけてると疑われても)仕方ないように思います。
これまでの教育が近代性を踏まえていて、かつ、
理系的捨象(同種の他との差異要素の捨象)を確からしさの根拠にする(文系域でも場の固有性差異を軽視する事で、内面場や局面場の固有性検討も、場の固有性との齟齬縮小試みも埋没させる)か、
縁ある多が紡いだ歴史性、もしくは、個が紡いだ歴史性を妄信(先の言える言えないについての検討による評価の放棄と言え、外在事情軽視が許されるとの局面事情把握の常態化もある)的に根拠にするか、
文系域でもこの二択を強いられる枠組み(同種の他との共通要素の捨象アプローチの埋没による、内実改善の観点の欠落)である点を近代性の負の側面とすると、
場の固有性に即してない(つまり、負わされに妥当性を見出せるだけの確からしい帰属を持たない)損得割り振りに塗れた社会に振り回される程度を、
場の検討された固有性に帰属してる表層形と実際の現象形とのズレを否定対象として見出し、己の最大限代替不可能化させた内在事情外在事情を具体化条件とする否定反応をもって、
抑える(通用を確保する)能力を(知性と倫理の基盤とする刷新へと向かわないどころか)むしろ押さえ込んだ上で社会に送り出してる形の現行教育が乗り越えられるには、
現教育環境下では、理解における対象の内実改善程度の評価側面を捨てないままの量獲得に抑える(いらぬ特化による、理解力の質へのいらぬ上限を避ける)のを、
自力で展開する子どもがたくさん現れるなどという事態は、理解力に対し文系の現知的上層が持ってる理解を推し量る限りない点や、
主観への同種の他との差異要素捨象にだけ価値を与える(近代性の弊害)のでなく、それが要請される局面もあれば、
主観への同種の他との共通要素捨象(肥大した主観による奪ったり擦り付けたりへの、つまり、帰属を操作してる形への、肥大部分を削るアプローチでの抑制)が要請される局面もあり、
どちらが確からしさの確保として要請されてる局面であるかを特定(局面の固有性特定)するのは、
直接的には同種の他との共通要素捨象であるとの理解の下に、両捨象の価値を教育体系の中で捉え直す必要がある点を、
教育関係者に認めてもらいつつ、
(この時、同時に、各場の代替不可能な固有性発現の阻害程度のみを、割り振りなり体系なり割り引きなりへの、肯定否定の判断基準や修正の軸としてもらう必要が事実上あるけれど、その際、
例えば、空気を読むに対し読まないという具合に、表層反転するパターンに対秩序の解決形を見る近代人枠組み(近代的な個人像や知性像を導いてる枠組みに解決観を落とし込んでる)は、
通用が行き渡った内実の発現阻害でなく、特定の表層形を、内実の通用領域とは無関係に断罪対象扱いする発想に留まり、
通用の行き渡ってる状態であり続けてる結果に表層形がたまたまこうなってるだけの事なので擁護対象になる、というのでなしに、そうした結果のものでなくとも己に都合が良ければ擁護対象になると懸念される為、
肯定否定感の軸足を表層形に置かない配慮も必須でしょう。)
誰もが内面世界で展開してる、場の性質の下の平等(場に置かれたもののポジションや具体的有り様に、通用を行き渡らせる整合処理)に、
場の性質の深掘り、性質変容との並走、性質(割り振り原理)の他の場への越境(各場の固有性差異への安易な捨象)阻止といった方向性(内外境界でもある有限性への安易な受容と忌避の二択枠組みの否定)を、
デフォルトの平等に実質を与えるもの、自他の整合圧力の衝突に話を矮小化させる枠組み(表層反転な解決観含む)を退けるものとして、
持たせる内容(各場の固有性への形骸でない尊重)が、教育に組み込まれる必要があると言えるように思います。
例えば、人のあずかり知らぬところで(ある状況に置かれた)何らかの生物が何かを得たり失ったりしてるのも、日常生活でたまたまの近さを理由に何かをしてもらったりしてあげたのも、
場の性質に即した割り振りが生じてるに過ぎないとも言えるでしょうから、
極端な話、世で生じてる扱い全てについて、場の深掘り把握された性質に整合的な扱いであるかどうか
(その性質を基に確からしさ差に当たる差異を設定する事により、帰属を操作してる形となるのを防げてるかどうか)以外の点を気にする必要ない
(結局のところ、有限性の不可避性を認める事と、より確からしいものが取って代わる運動性を各場の性質の、特定と発現阻害要因除去で展開する事が求められてるだけ)として、
そこを埋没させてる形の問題意識や枠組みに対し疑似物扱いし、それらの持ついらぬ飛躍への否定反応を、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情(場の深掘り把握された性質に相当)でもって具体化する方向に、
教育者は育成すべき知性(近代枠組みの下で得られるのは、理系的局面でのみいらぬ飛躍除去に厳格な知性)や倫理を見るべきでしょう
(限界や修正形は判明してるとの立場に立てば、教育や学問の既存枠組みに保守的であり続ける必要もないわけで、
理解力にいらぬ上限を、確からしさ差に当たる差異の設定精度が低い状態で割り振りが展開されてる事態への鈍感さを、子どもに付与した上で、
つまり、自他の限定通用状態に気付く能力の働きからして押さえ付け続けた上で、社会に送り出してきた形のこれまでを、
その影響含め、寄ってたかって事態を再生産させてる一員の立場から認め、改める為にも)。
その影響に関して最も深刻なものは、古代の地中海世界で権威を得た宗教や哲学の傾向に見られる偏り(限定通用性)を修正する
(近代以降もその偏りは保存され、現世界構造もその上に立ち上がってるので、つまりは、外界から負わされるものの内実を、形骸的状態から実質が詰まってる状態へと持ってく)のに必要だろう次の、
有限性を代替不可能化する運動性が機能しててやっと、矮小化抑えた無限性や有限性と向き合える
(したがって、表層反転という意味で短絡な限定作用忌避に見えるニーチェ系譜はじめ、抽象と具体の必要価値の対等性、抽象化と具体化の精度の論点化へと向かわなかった対ヘーゲル、及び、様々な規模での対歴史性は、
言い換えると、より確からしいものが取って代わる運動性への阻害要因の除去志向を持たない問題意識や枠組みは、上の修正にとって不十分)という前提に、
辿り着けなくさせる近代人センスな枠組み(内実不問な理解作用の弊害と見なせる、表層反転で終わらせてしまう解決観込み)を寄ってたかって負わされ、それに疑問を持ってない人と、
知的や倫理的な権威を認められてる人とが重なってる点でないかと個人的には疑います。
例えば、不確定なものをそのままで扱うか、加工して確定的扱いするかは局面事情次第とし、
代替不可能化した局面事情(捨象十分な具体化条件)の反映であれば、理想(捨象十分な抽象物)を犠牲にする程度が条件上の最小(限定の前と後で通用量が保存されてる)のまま現実を成り立たせてると見て、
加工してるしてないという表層形の有り様を、取り上げるべき差異とするのではなく、抽象化や具体化における捨象が通用の行き渡ってるものかどうかをそれとしましょう。
常に我々は、自分(の採用した観点)なりに通用が行き渡っているいないを判断してるだけであり、
通用の行き渡ってるもの(選択放棄含む)を選んでるという形からは誰も逃れられないのであって、
採用観点に対して通用が行き渡っているいないを判断する際の観点が、より確からしいものが取って代わる運動性へのその人が持つ阻害要因の除去程度によって、
通用が行き渡っているいないの内実差を持ってしまうのだろうと思います。
ここで見られる、通用の行き渡ってるものを常に選んでおきながら、観点設定に関してそれに失敗してる不整合(通用が行き渡ってない)のケースが、
上で言う取り上げるべき差異における誤解(表層形の次元で理解を終わらせてしまう傾向)に重なってるように思われます。
例えば、既存の教育体系(近代性が前提にある)において受容されるのに必要な手順をこなしてたり求めたりする一方で、
例えば、理不尽さについて語る説得力に関し、できるだけの事したが駄目だった的形(内外境界の確定追求の帰結)との、
正確には、代替不可能化させた内在事情外在事情の反映としての有限性との遠近でもって差異を見るという、手順に対する姿勢に理解を示さないとしたら、
前者の前提に関する絶対主義を意味するのでないか、
また、前者の前提と後者の前提(近代性の枠内にいる限り辿り着けない、先の前提)とを対等扱いし、
(それは、暴力自体は縮減されない単なる立場入れ替えと、暴力自体の縮減との間に、通用領域の広狭差異を認めないも同然な反応であり、
現世界構造的には、その土台的な宗教が持つ傾向の一つに遡れると疑います)
どちらが選ばれようとくじ引きレベルと捉える相対主義(両者の整合圧力の衝突に話を矮小化する枠組み含む)を採る事で、
絶対主義(場に合わさない)と相対主義(場の性質を事実上検討せずに場に合わせる)の二択枠組みを前提にするのも、
近代性(場の代替不可能な固有性に即しているいないの差を捨象)の外に出てない以上、前者の前提に関する絶対主義を意味するのでないか、と思われます。
そして、この事態の原因として、上で言う阻害要因の除去志向の弱さがあり、また、弊害として、
場の代替不可能な固有性(割り振りの帰属先)の発現保障を、場に置かれるものも場の管理側もそれぞれの立ち位置から、自己や他者に働きかける、
この秩序像を埋没させる働き持つ、人権主権の対立構図(整合圧力の衝突的な秩序像込み)に代表される、近代的権利観を背景とする言動がまかり通る状況も、
実際受ける扱いに軸足を置き、抽象と具体の必要価値対等に背を向けた挙句、
負わせるへの自己の反応と負わされるへの自己の反応、という個々具体を抽象具体の確からしい関係構造
(より確からしいものが取って代わる運動性を阻害なく取り込めてる理解)に落とし込めてない自己についての像
(林檎は数えられるが蜜柑はできないのに、数を数えるが十全にできてるつもり的状態、当然、特化を代替不可能な事情の反映に抑える配慮があるとは言えない)を、
望ましい外界像に投影した上での対象位置づけがまかり通る(通用性を備えてると誤解する)状況も、
あるのでしょう。
つまり、主観等への、同種の他との差異要素の捨象を、情報量が拡大しても保持しつつ諸々の関係性を整合させる事で、
いらぬ飛躍を取り除ける(通用が行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転も可能となる)為、
近代性の枠内でも、領域侵犯しなければ問題ない理系者と違って、
文系者は、既存教育(近代性が前提)に対し妄信的か、いらぬ特化の回避とは無関係に反発的かの二択状況が続いてる限り、
いらぬ特化を抑える事(やむを得ないものしか負わせない為の具体化条件付し直し)が必要な、通用量を保存した論理展開や歴史展開は無理なので、
その人は、情報量の拡大行為自体や個々の情報から、いらぬ飛躍を十分には取り除けないし、
外界への的の外れた働きかけを、場合によっては権威で影響力高めつつ、展開してる
(知的や倫理的な働きかけも、
事実上の何でもあり化に消極的か積極的かの違いでしかなく、悪貨が良貨を駆逐する的に意義や秩序を崩壊させる可能性まで持ってる点は同じであるケース含め、
近代性ロジックAの立場から同Bを批判したり上書きするに留まる)、
言わば、80点(近代性枠組み故の上限)がそのままで100点となる(高原安定と引き換えに上を捨てる次善の策が、条件変化によらず居座り続けられる)よう、
全体を意味する枠の方を矮小化(通用が行き渡ってると錯覚)させるプラットフォーム囲い込み(ソクラテスが知に、いらぬ飛躍除去の基盤化持ち込む流れとは逆)を通して、実態以上の評価を得てさえいる、
そう捉えるべきなのだろうと思います。
なので、例えば、歪んでいるいないの分別原理を付さないまま、愛の素晴らしさを説き、価値観に刷り込むレベルで押し付けるという、
何らかの名の下にとか何か(未来なり自分なり)の為になど、前提にしてる根拠に、歪んでる場合の帰結を帰属させてしまう、付してれば防げた以上、誤帰属込みと言える構造に、
いらぬ飛躍を見出し、取り除く(場の代替不可能な固有性に割り振りを紐付ける)。
例えば、どんな環境に置かれてるのであれ、その人が環境から負わされるものの内、
表層的要素に代替不可能な局面事情と関係なく応じない有り様を、その人に可能(現在の能力に反映される為、自身に関する歴史性の紡ぎ方がどうだったのかも含む)な上限として展開した結果とは言えない部分
(外在場へのいらぬ特化と言える部分)については、環境に帰属させると誤帰属になるわけで、
損だろうと得だろうと、外在場の代替不可能な固有性に帰属しないものを外在場から負されない、かつ、内在場の代替不可能な固有性に帰属しないものを内在場に置かれた諸々に負わせないよう、
(この配慮が機能してないものは、善や正義に見えようとも悪に見えようとも、つまり、表層形の振り幅がどれだけ大きくても、近代性の外には一歩も出てないと解し、
外界への働きかけが近代性枠組みによる囲い込みとならないよう、または、安定化や価値付け含む、対象落とし込みの紐づけ先が文系域にとっての近代性枠組みのような、形骸な全体像とならないよう、)
限定作用(意識作用におけるような注力の強弱含む)を確からしい理由が付されたもの(代替不可能化されてる具体化条件)に限る。
そうした処理を、林檎も蜜柑もまだ見ぬものも数えられる的に、あらゆる概念観念で展開できる(対象位置づけの精度に直結する)能力の保持をもって、
文系知性の世界標準(既存のこれを寄ってたかって強いるのでなく)を満たしてるとする事、
特に、小学期の段階で、環境に振り回される程度(提示価値への妄信と反動反発のような振り幅)を、つまり、環境からのいらぬ影響を抑える為に既に重要である、
いらぬ特化を避けた末のできないや損失を肯定する、できるできない観や損得観の獲得(既存教育への、つまりは、近代性への妄信の末に得られるものを求めてしまわない為にも必要)を、
可能にする、局面の検討済み固有性と着目無視との合致配慮を、いらぬ飛躍除去の基本として教育に組み込む事により、
いらぬ飛躍除去(原理抽出含む)を作業量と見た時に、理系と比して成果が大きく見劣りする文系域の現状
(例えば、内面立脚や状況立脚といった立脚先の選定に解決を見て、場の性質深掘りを論点化しないなど)を、
その意味で理系がしてる事をできてない一方で、理系域の実績の威を借りて引き出した過大評価に相応な諸々を、文系者が手にしてきたと言える形のこれまでを、
認めつつ、文系域の内実改善に組みするよう、文系者や教育関係者に求めていきましょう。
(上の例で言えば、歪んでいるいない、応じているいないの差異を理系的局面でもないのに捨象するセンスに関する通用領域の狭さを、
また、着目すべき差異を理系的局面以外では精度良く取り出せない事を意味するそのセンスの産物への、確からしいもの扱いが常態化してる事態の弊害、
例えば、形式や帰結が場の代替不可能な固有性に即しているいない、この差異を焦点としてない批判や擁護が、
知的上層においても確からしいもの扱いされてきた(近代性由来の内実差異無視)せいで生まれてる、社会全体が見せる対秩序(負わせる負わされるに対する反応)についての有り得た上限からのギャップを、
指摘され、かつ、修正する余裕があってなお近代性枠組みの下での安定に走る有り様とは決別するよう、求めていきましょう。)