2656文字、形骸な多様性確保と教育の関係について
2024-12-001
足の速さのみが問われてる場での割り振りに他の差異(薬の効き具合など)を持ち込むのも、
足の速さのみが問われてる場での帰結をその差異が問われてない場に持ち込むのも、
防いでる(場が持たざるを得ない偏りのみが反映されてる秩序を損なう越境に対し阻止する)のが場の本質の保障なので、
場の本質への志向(場の性質の取り違え最小化への志向込み)が、各人の内面世界なり局面なり各社会なり、無数にある場についての形骸でない多様性確保の中身
(多様性確保の対象は場であるという理解がない時点で多様性確保は井の中の蛙的状態、林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的原理不在状態に陥ってる)であって、
優勢劣勢有り様に対し持ってる問題意識が場の本質への志向のみから成ってるのでないなら、その問題意識は形骸でない多様性確保を阻害してると捉えるべきです。
したがって、フェア(局面事情と着目無視設定の合致)を越えて自他を助ける救済観
(内在場についても外在場についても場の本質を志向してない内在不問外在軽視な典型自由観込み)の持ち主は、形骸でない多様性確保を阻害してる側であり、
この人達の言動が多様性確保(存在尊重)であるかのように扱われる状況の修正は、
形骸なものを確からしいもののように扱う茶番世界(確からしいものが帰属操作を受け、不当な劣勢を強いられてる世界)に付き合わされてる人を減らしたいなら必要です。
(フェアを越えてまで自他を助けない際の解決されてない状態を受容に値するものと見なす態度は、
安定不安定がいらぬ特化の忌避を、もっと言うと、具体化精度確保を獲得に先立たせる場合に生じてるものかどうかについて問う内実検討と実質同じです。)
同様に、場の秩序の維持を担ってる諸々(標準像はじめ、帰属関係の保守圧力込み)が、場の上に立ち上がってる秩序と場の本質との乖離状態を保障していても、
疑問を持たずにいる人が、もっと言うと、場の本質への志向(疑問を持てたとしても自身の振る舞いが受容に値するものかどうか、
つまり、乖離の修正を理想とした時の、理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立たせてる現実になってるかどうかについての評価を機能させるには、
現実を理想が置かれてる場と見た上でのこれが必要)だけから成ってるとは言えない対秩序が、社会有り様に対して高い影響力を持ててしまう状況も修正対象です。
(競争的か協調的かという表層形の違いをもって帰属操作を問題視するしないを決める振る舞いも、
社会的地位という表層形の違いをもって優勢劣勢有り様への操作、および、修正余地のない優勢劣勢有り様への接近妨害を問題視するしないを決める振る舞いも、
場の本質への志向だけから成ってる対秩序の不在の現れであり、搾取に対して小手先でなく原理レベルで対応する気がない、
つまりは、ご都合主義の外に出るつもりがなく搾取に対する肯定否定を事実上都合次第としてる現れです。)
この状況をつくってるのがその乖離状態の修正や、乖離部分に付き合わない運用を機能させるのに必要な能力
(場の本質にのみ合わせてる有り様を具体化精度最大状態とした時の、特化の過不足への問題意識、文系事象についての仮説改善を上限化するだけの検証精度への志向を含むこれ、
および、個別性に対するその不十分さが文系事象に関する抽象化具体化の不十分さとなる為に、乖離の把握にとって前提となる同種の他との共通要素捨象)を育てない既存の教育です。
例えば、理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立たせてる現実が点として紡がれてる歴史展開であれば表層形が変化的だろうと不変化的だろうと肯定し、
そうでない歴史展開であれば表層形が変化的だろうと不変化的だろうと修正余地のあるものとして扱う立場とのズレをもって、
既存の政治理論や政治現象を評価する事のできない人(それらの修正余地を掴まえる事のできない人)が、
対政治において権威を持ててしまう事態(変化の遅速に着目してる枠組みへと対象を押し込んだ上での位置づけ処理がまかり通るなど)は、
能力や情報や可能性の獲得具合を代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合させるよう要求せずに為される獲得推奨から成る教育論が、
前者的歴史展開(正確には、抽象化具体化の精度最大化の下での交互反復)であってやっと受容に値するとする歴史観の居場所を、教育領域において奪う事に成功してる時点で既に始まってると言えます。
(上のズレが大きいほど的外れと見なす理解と、いらぬ特化に追いやるこの獲得推奨を真に受けるのはセンスが悪いと見なす理解とは同種の問題系であるわけです。
また、権力は場の本質を場全体に行き渡らせる為にのみ用いられてる状態からの乖離部分だけが問題であり、
社会の性質が場の本質であると厳密に言えるのは、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像だけからその社会が構成されてる時、
冒頭で言うと、プレーヤーと運営が対立構図でなく、プレーヤーから見た外在場の本質の発現に関してそれぞれの立場から協力してる形になるこれなので、
ある社会の権力が、代替不可能な内外事情にしか応じない実存から遠ざける教育、
存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させてる実存状態が修正されない教育を許容してる時点で権力の形骸化は確定してますし、
その構成状態における優勢劣勢有り様との乖離の意味でのいらぬ幸不幸に対して責任が生じてます。)
なので、既存の教育は、局面事情と着目無視設定との合致(特化の過不足の縮減)を維持する対人(対他者は平等、対自己は自由に相当し、対テキストも込み)、
言い換えるなら、フェアを越えない対人を含んでる、代替不可能な内外事情にしか応じない実存と、整合してない獲得喪失を拒否しながら付き合うべきもの
(文系の学歴の高さは個別性が根拠になる局面での個別性の取り違え最小化を、
したがって、冒頭で見たような、場の個別性と場で実際に問われてるものとの不一致に対する、つまりは、検証作業に際して取り出される差異の取り違えに対する厳格さを、
ひいては、文系事象についての仮説を改善する能力の高さも、評価する能力の高さも保証してないので、
自分が自分である限りこうならざるを得ないといった感覚はじめ、仮説でしかないものに対し、
現状での受容に値する状態にまで持っていけているいないとは関係なく肯定否定してる内容の言動が、
知性的倫理的美意識的であるかのように扱われてる事態を助長してるケースすらある)と捉えましょう。