余裕があってなお質を求めず量を取りにいく人達が、近代パラダイムを存続させてるので、近代パラダイムに由来する不幸の責任は彼らにあるとも言えるはず
2021-9-002
この原理では説明できないものがある(射程範囲に通用してない領域がある)という場合、
説明できる原理へと修正されるべき(抽象具体の関係構造をより確からしいものにすべき)状態にある事を意味してるだけであって、
理想(射程範囲を説明できてる原理)を割り引いてる程度が、条件上やむを得ないと言えるものかどうか(次善の策に甘え過ぎてないかどうか)に、
つまり、理想を抽象物、現実を具体化条件とする抽象具体の関係構造(割り引かれ構造の提示自体はプラトンカントの時点で既にあると見るべき)の安易さに、
批判点がある。
そう解するなら、通用の行き渡ってない原理が持ち出されてる事例をもって、
原理の適用から逃れる有り様を一般化する(適用回避に次善の策以上の位置づけを与える)根拠にしたり、原理を恣意が入り込める状態に留める言い訳にするのは、
過剰反応(論点ズレ)と言えるはずです。
また、理系的な文脈での通用行き渡らせる処理を、文系的局面に持ち込む事で生じてる齟齬(過剰捨象)であれば、
それは近代パラダイム(行動原理の構成要素)の限界から来てる問題なのに、
不当合理化と過剰特殊保障の二択枠組みを前提にしてるなどの、近代性によって矮小化された問題意識の下に話を進めてる事態、
つまり、近代性という特定時空性を全体枠と見なす内容の、限定通用物への通用が行き渡ってるもの扱い、
そこから上の過剰性は来てるとすると、
その種の反応は原理の限定通用性を、近代性については不問に付す中途半端さなり、恣意的態度なりの現れ
(限定通用的な有り様を具体化条件とする帰結に、他が負わされるだけの十分な根拠はない)と言えるでしょう。
例えば、人権は現状、近代パラダイム(内在不問外在軽視な主体像や解決像に繋がる、分離処理への過大評価)の下に規定されてる為に、
振る舞いがフェアかどうか(各場の代替不可能な固有性に即した割り振りに対する支持に、等しい着目無視を保ってるかどうか)の差異に対する捨象が前提と化してるだけ、
個々人の差異捨象(理系的な文脈の普遍性)が要請される局面もあれば、内在事情外在事情に対する個々人の反応傾向の確からしさ差異を扱い差に反映させるべき局面もある、
という世界像とは一致してない用いられ方
(内在場や外在場の管理がフェア保障と言える言えないの観点とは無関係な、人権主権の対立構図の文脈など)をしてるだけなわけです。
なので、もし普遍的価値の類に過剰捨象を見るにせよ、
文理で通用を行き渡らせる処理が異なる点に対しても通用してる原理へと修正する話(パラダイム刷新)として捉えるべきを、
そうではなく、通用を行き渡らせないという話、むしろ原因であるパラダイムを保存する方向の話
(フェアに割り振られた損得や役回りさえ、回避する余地を残す展開)になるのだとしたらそれは、
現象は、内在の性質と外在の性質が合わさったもの、つまり、抽象状態と具体化条件のそれぞれに帰属してる部分を持ち、
本質的でない性質は代替可能(他もあり得るもの)な為、削ぎ落す事が帰属の修正(冒頭で要請されてる処理)、
文系域では現状、この内容を問題解決が不足なく持ってるとは言えない(同種の他との共通要素捨象アプローチに対する、軽視を導く近代性が原因)、
故に表層的、小手先的な解決像
(場に合わせてる形から合わせてない形への反転はじめ、表層形反転という過剰反応で済ませるなど)しか思い描けないせいと想像します。
ところで、10秒前、5秒前、現在等々のAと、それらを個々具体とする抽象としてのAとの間にある関係に、
実証結果と仮説形成の行き来のような確からしさ向上の側面を見るにせよ、言葉の意味合いやニュアンスの変遷のような都度割り振られの積み上げの側面を見るにせよ、話は同じでしょうから、
歴史展開に対しては、抽象化具体化の交互反復から成る表層形変転
(論理展開と同様に、通用が行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転とするには、
抽象化と具体化条件割り出しの精度最大化、つまり、捨象対象と局面要請の合致が必要)であり、
具体への過大過小位置づけの修正問題を常に抱えてる、
そう解するとして、そこには、
経験に振り回されるのをできるだけ抑える為に、個々の経験を確からしい全体像の下に位置付ける事ができる必要ある、との理解も含まれてるはずです。
また、教育受ける事も一経験ですから、対象位置づけに際する井の中の蛙状態ゆえの過大過小評価
(負わされるに値するだけの確からしさを欠いた位置づけしかできない状態での他者批判は、
自分が大した理由なく殴るのは良いけど他者はダメと言ってるも同然なので、知的説得力が不十分)、
それへの対策の射程には、教育関係が与えてくるものに振り回される(妄信対象と共倒れする距離にあるなどの低通用状態)のを抑えるような全体像獲得の問題
(理系的捨象特化を促す近代性はじめとする、枠組みインストールへの対策込み)も含まれるでしょう。
そして、被教育者がメタ的に持っておくべきその全体像には、
近代を終わらせる話でもある次の理解(質と量の関係に関する理想現実関係についての、成立達成執着からの解放意味する、排安易の像)が相当すると考えます。
(教育受ける事への単純な反発も、対世界なり対自己有限性なりに質を求めない成立達成執着な感覚の産物と見て、下の理解と統合的に捉える事により解消は可能と期待。)
手札を多く持つ(真面目不真面目等の、両極持っておくスタイル含む)だけで十分とするのは、
各対象の内実確からしさ差異や自己との距離差異を捨象する、理系的捨象で臨むほど、
具体化精度の低いものもかき集める類の具体形パターン網羅(多様性確保)であっても、
つまり、井の中の蛙状態が質的には改善されなくとも、疑問を持たず励む(言わば、実験精度の高低を気に掛けない時代に留まってるようなもの)形となり、
量を増やせる為、その臨み方(形骸化と引き換えの獲得なので、質を求めるだけの余裕がある条件下でのそれは、成立達成執着を意味する)でしか世界に向き合えないという、
不当合理化的枠組みのインストール状態へと偏る可能性を持つ、
表層的、小手先的な解決像
(偏りに対する批判や擁護が、偏りの仕方ない部分まで否定する、仕方ないとは言えない部分まで肯定する、内実に踏み込まない表層形反転な内容なのに成し遂げた気になるなど、
通用領域の閉じてない方を選んで生きてるつもりで、解決観自体が限定通用的)であって、
質を欠いたものが局面事情とは無関係にまかり通る、ひいては、対文系での理解力の高い人という体が内実の確からしさ差異に鈍感な段階でも通ってしまう、
(置かれてる場の代替不可能な固有性を損なわないようにすると表層形はこうなる、
この経緯を持つ表層形ならAだろうとBだろうとOKにする態度でなく、恣意の余地を削るこの経緯とは無関係に表層形を肯定否定してても問題視されない、
例えば、理念の持ち出し方が後者的でも、概念を不当に扱ってるとは見なされない、)
ぬるい(内実の通用が行き渡っているいないを問われない)現状に甘えて、そのぬるさに由来するいらぬ負わせ負わされを正当化しながら生きる
(不当な扱い受けるのを望まない対象に含まれる範囲が井の中の蛙的)という意味での、現状への合わせ過ぎ(いらぬ限定化)を避ける為にも、
質を求める余裕があるのなら
(余裕の有無のような局面事情に合わせるには、確定的扱いという固さの程度を、局面の性質に紐づけておく必要あり)、
最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない有り様に近いほど信頼する
(負わされるに値するだけの内実を、その有り様である事によって齎されるものに認める)方針の、
自他(主題の展開具合含む)への反映をもって、教育関係を通して与えられるものとの遠近に質を与える
(遠近差異が、不当合理化と過剰特殊保障の、表層形反転な二択枠組みに落とし込まれてる状態から解放する)べき。