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4051文字、コミュ力(あるいは仕事力)と学力の関係を疑似対置として捉えようという話

2025-1-003

相手はこの情報を持ってないとか、持ってるけれど価値を取り違えてるといった帰属関係把握があるからこそ嘘もつけるし、危険を知らせようともなるわけで、
帰属関係把握が不正確であるほど、コミュニケーションの前提に過不足があり、振る舞いも的を外したものとなってしまいます。

同様に、帰属してるべきものが帰属してないとの判断にいらぬ前提が含まれてるほど、不自由感や不平等感は勘違いであって、
それらを根拠に何らかの有り様を否定した場合、そこには冤罪的側面や過剰に得ようとする側面(搾取側面)が含まれてしまってると言えます。


帰属関係に修正余地がない(ここを取り違えると取り違え分が、帰属関係の実態に振り回される程度を抑えるべく、帰属関係の実態に対する修正余地込みの肯定も、修正余地以外込みの否定も避ける試みにとって、
いらぬ前提となり、試みても防げる振り回されが残ってしまうし、もちろんそれは、防げる不自由の保存でもある)のは、

有限(内外境界発生)の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性だけから成ってるという帰属状態の時ですから、
場の取り違え最小な個別性が場全体に行き渡ってる状態として立ち上がってる秩序への志向、

当然、介入の強弱を正当化の根拠にはせず、場の上に置かれてるものが何であろうと、場から受ける扱いがどのようなものであろうと肯定するレベルでのこれが、
主体の内在場に対しても外在場に対しても見られる必要が、上の判断にはあるわけです。



ところで、近代以降の世界は、主体の個別性によって統合された情報(贅肉の薄い厚いが反映された寒暖判定など)が立ち上がってる場は在っても、
現象を内在性質と外在性質の統合物とし、文系事象の現象理解には両性質についての仮説形成に加え、

両性質の取り違えが最小である場合と実際有り様とのズレ部分の意味での修正余地の把握まで含まれるとした時に必要となる、
存在現象である実存の両性質からいらぬ前提が取り除かれてる状態(個別性の取り違えが最小化されてる状態)への志向

(具体化結果に対し、抽象状態と具体化条件の確からしさについての検討を通して評価する、
かつ、具体化条件の確からしさが上限である時の具体化結果を、抽象状態の推察や改善に繋げる情報とする枠組みに、

自身の実存を具体化結果の立場で落とし込んだ結果をもって、帰属修正余地の全体という抽象としての問題状態、
当然、置かれてる場に自身を通用させ続けるという存在課題も、個体レベルに種レベルや細胞レベルを重ねながら含まれてるこれから、自身が持つべき具体的問題を切り出す際の、
および、切り出した具体的問題を現時点での受容に値する状態へと持っていく際の具体化条件とする試みと言い換えられる)は不在である

(デカルトの弊害ではあるけれど、個別性の内実確からしさという対真善美や対人間性にも関わる差異の論点化を妨げる、
その結果、ドーピングによる金メダルのような形骸な選抜結果と言える感情や主張しか持てない人が標準となる状況に繋がるのなら、例えば、独我論への肯定も否定も有害なのは同じ)為、


後者の補完(可能なら、いらぬ前提を取り除く働きが機能してない部分まで真に受けてしまわないよう、いらぬ前提を持たない自己や世界への志向を対哲学に先立たせ、
個別性の防げる類の取り違えが文系的な論理飛躍として扱われるパラダイム、

文系的な論理飛躍を含んでる成立と含んでない成立とが区別され、余裕がない等の内実不問を要請する局面事情が場の取り違え最小な個別性である場合に限って、
含んでるコミュニケーション成立も肯定されるコミュニケーション観と整合的なこれへの変更)をもってやっと、自由や平等を求めても冤罪や搾取を伴わずに済むようになると言えます。

(曖昧と明晰の割合や分布も、場の取り違え最小な個別性が全面展開された秩序でありさえすれば良いとする立場に立つと、
曖昧と明晰に対しどちらかを上にしたり、離散的にか連続的にか単に両極保有するだけの枠組みは廃棄される事になりますが、
当然、廃棄対象には、曖昧さに立脚した哲学や明晰さに立脚した哲学に属すると見なせる処理枠組みをもって語られる自由像や平等像も含まれます。)



また、理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実に相当してる、代替不可能な内外事情にしか応じない実存について、
誰に対してもそれを要求するがそれ以上は要求しない、という後者と整合的な平等性を求めるのは、

課されてる条件の違いによらず条件上の最善をもって誰もが繋がってる世界(当然、個人であれその集積であれ、理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実が点として紡がれてる歴史展開となる為、
真善美との乖離の内、防げる類のものを取り除けていればそれで良いとの方針も含まれてる)への志向でもあるので、

帰属関係把握の不正確さはコミュニケーションが的を外す原因であるにもかかわらず、把握含む能力の有限性は回避できないという点を、
ひいては、分かり合えなさを、修正余地がなく受容に値する状態にまで持っていく試み


(肯定も否定も、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を踏まえた、通用が行き渡っているいないの判定が根拠であり、
むしろ、この判定を下す処理から逃れられない為に、誰もがより確からしいものを選ぶという規範性を知覚レベルでも満たしてると言えるけれど、

この相関を持ち出す観点に対しては相関の適用を怠る事が可能なせいで、自動的には認識の精度は上限化されず、真善美との防げる類の乖離が生じるという事情に対する、
言い換えるなら、次元設定自在性という人間性に振り回され得る、言わば、自身の形式の形骸化問題に対する、
観点の確からしさ上限を意味する上の実存への、志向の導入による対応)でもあって、

逆に言うと、後者の補完が達成されない限り、社会の有り様について語る哲学は、
社会性なり社会秩序なりの基盤に関する内実の確からしい像を提供できないと見なすべきであるわけです。



ちなみに、上で見たコミュニケーション観は、個別性の防げる類な取り違えの意味での文系的な論理飛躍が含まれてない成立を理想とした上で、
理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実であれば受容する枠組み(理想軽視と現実軽視の同時否定による排安易であり、

近代以降の理系知性は事実上持っていて、近代以降も文系知性は個別性の取り違えに対する問題意識と共に事実上持ってない精度最大な抽象化具体化への志向や、
それを抽象化具体化交互反復に拡張した展開性の前提である、抽象具体の価値対等性の一種)における、

理想を代替不可能な内外事情にしか応じない実存の間で展開されるコミュニケーション、
現実(チキンレースで大した理由なく即離脱する的な安易さは当然回避されてる)を同実存としてる形ですが、

局面事情と着目無視設定との合致の下での対他者(対テキストの矮小化の回避込み)を平等、この合致の維持自体(過大反応と過小反応の同時回避)を自由としつつ、
同対応を主体の外在場だけでなく内在場にも拡張したのが代替不可能な内外事情にしか応じない実存であると解せば、
通念的なコミュ力との間にあるのは、観点への安易さ混入の阻止の有無であると見なせます。


また、小学生でも理科の実験や算数の文章問題に臨むにあたり、局面事情と着目無視設定との合致が要求されてる以上、この合致は理系の学力に含まれてると言えますが、
短距離走で順位や能力差を確定させるケースに関しても要求されてるものは同じであるのに、この合致が文系の学力に含まれてないのは、

プレーヤーと運営がこの合致(これはこの場合フェアと解せて、具体化精度確保でもあるフェアを嫌うのは、
妥当な割り振りの損得に限定するのを拒む以上、妥当な損の回避や不当な得の受容に開かれていたいだけであり、

対事実もご都合主義による過小反応過大反応という、世界像や理念像の杜撰な構築にも繋がる、
反応にいらぬ前提を持たせてる弊害が疑える)の下での帰結を得るという共通目的

(プレーヤー立場はフィードバックに値する情報も得る)の下に協力してる像を、
個人と国の間や、国と国際機関との間の関係に重ねているいないと学力の高い低いとは相関がない事実から明らかと思います。

個人の為した感情選抜についてその人がその人である限りそうならざるを得なかったもの
(雨が降ろうが槍が降ろうが、夢の中だろうが、持たざるを得ない偏りとしての行動原理や反応原理の産物)として扱われる条件も、
内在場と外在場の違い、および、個別性が根拠になる為に個別性の取り違え最小化(同種の他との共通要素捨象)が必要な局面と個別性が根拠にならない為に個別性捨象(同種の他との差異要素捨象)が必要な局面の違い、

これらがあるとはいえ理科の実験で必要なものと構造的に同じなのに、やはり文系の学力には含まれておらず、
通念的学力と通念的コミュ力の間の関係に対する言及は、観点への安易さ混入を許してるもの同士の対置といういらぬ前提の下で為されてるわけです。


この関係を押さえた上で、コミュニケーション成立をビジネスや金融における需給成立に置き換えるなら、有能さについての誤解が搾取についての誤解に繋がり、
理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実と実際有り様とのズレ部分(負わされるに値しない部分)のみを搾取の発生と見なす観点による、企業の対内在や対外在への評価の不在が、

資本主義に対する過剰肯定過剰否定(需給実態に対する場に合わせる合わさないの表層形反転二択による反応)へと、
ひいては、資本主義への言及も、社会有り様への資本主義を踏まえた言及も真に受けるに値しないものとなる事態(修正不全)へと、

繋がるにもかかわらず、学力と経済的需給成立能力との間には同様の疑似対置があって、その弊害が生じてる、
こう解せるはずですから、まず能力像を先のパラダイムと整合的な内容に修正しましょう。

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