たらい回しレベルの知性や倫理がまかり通るこれまでとは、異なる世界を現れやすくするのに必要と思われる事(既存の知的上層の地平への対策)について
2021-7-004
人は井の中の蛙状態(不当な扱いについての全体像込み)からスタートする上に、
全体としてる枠を広げよう(対象位置づけを確からしいものにしよう)としても有限能力の事情で凹凸が避けられない、
以上は前提として、小学期にもなれば、
成長に任せるべきところまで努力で何とかしようとするケースの弊害含め、
この枠組みをインストールすればあれができるようになると分かっていてさえ、いらぬ特化(いらぬ被限定)を避けるべく、あえてできない状態に留まるべき状況に出くわすようになる、
そう見て良いでしょうから、
限定通用(通用が行き渡ってない)状態に大した理由なく成ってる(でも通用が行き渡ってるつもりな)判断を、自他に負わせない為にも、我々は、
最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない態度(代替不可能性という、引き受けざるを得なさ)に、注力を即させる事で、
いらぬ特化を避けた(無闇な注力の帰結でない)凹凸に抑えるべきですし、
その態度に自由や平等の実質を見て、場の固有性の発現保障
(次善の策への甘え過ぎ甘えなさ過ぎ部分をあぶり出す際に必要な像でもある、局面事情に即した着目無視込み)を育成する(形骸倫理対策)、
ひいては、対帰属を(思想系に見られる、表層反転を振り子する歴史踏まえ)文系域に関しても、
より確からしいものが取って代わる運動性に乗せるよう導く(形骸知性対策)、
そうした教育
(場の性質から表層的要素を取り除いていった先に、割り振りを即させる教育)を展開すべきと思います。
(今この局面では何が可能か、といった判断は常に下していて、その結果は内在系と統合される、
対局面では表層的要素を代替不可能要素かのように捉える事で振り回されてるのに、
内面場では振り回されてないと言い張るのは、林檎は数えられないけど蜜柑はできると言ってるようなもの、
具体化の結果は、具体化以前状態の推定に用いられたり、具体化以前にフィードバックされる為、
具体化条件として規定した外在性質の確からしさは更新変容の確からしさでもある、
価値付けや通用領域判定など、ポジション割り振りを為す際の観点は各場の固有性であり、
ある場での割り振り結果の他の場への持ち込みを許す事になる為、各場の固有性に対する尊重の不在を意味する、
固有性への事実上の検討不在が、適正とは言えない扱いの意味での不平等の正体、
以上を認めるなら、外在性質やその検討能力実態と無縁でいられるかのような自由観や自己保障観は、
いらぬ特化の自覚ないままに為される、つまり、通用の行き渡ってるものを選んでるという前提が常に形骸な、理解行為の産物であり、
被加工自体は前提として、そのやむ得なさ具合を論点とする全体像の下に位置づけし直すべき対象と言えるはずです。)
例えば、歪んでいるいないを区分けする原理付さずに何らかの名の下に愛を推奨してるケースに対して、
分別不全の弊害までその名に擦り付けるという、帰属の操作の形を修正しにいくのではなく、
同様に分別不全なままの対立概念を持ち出す(表層反転)などしてたら、質的には変わらないままの表層形変転に過ぎない以上、
言わば、たらい回しされてるだけのもの(帰属の修正作用的には空転な、ある種の乖離の保存物)を、通用の行き渡った判断なつもりで自他に負わせてる事態と言えます。
(フェアを越えて自他を助ける形も含む救済観は、アンフェアの被害発生と引き換えに助けてる、
つまり、不当な扱い受ける立場を無くすのでなく、パスしてるだけなわけで、
規範への検討不在も単なる相対化も、このレベルと思われますから、
形式の選抜含め、ポジションや具体的有り様を割り振ってる原理について、各場の代替不可能な固有性の発現保障の観点から評価するという、
有限性自体の不可避性や代替不可能化させた有限性形態から成る、引き受けざるを得なさの受容と整合的な救済観や属性論ポジション論の採用、
及び、擁護や断罪を表層次元のみで、つまり、割り振り原理への検討を埋没させつつ判断する、何ら新しくないセンスに組しない姿勢は、
他者の受容に値しない行動原理に対する具体的反応も当然含む、自身の行動原理を確からしくする上で、
妥当不当の観点からの反応でない事意味する、不当獲得構造に不当獲得構造で応じてるレベルから脱し、先の態度の下での得る得ない、できるできないを自身や世界の姿とする上で、
必須でしょう。)
各場の性質(変容し得る)に形式を即させる事は前提で、発現保障の対象であるその性質を代替不可能なものに限ってる
(割り振られなど、発現保障の帰結が、引き受けざる得なさを内実としてる、
具体化精度の観点で言うと、場による加工作用がその種の加工を剥いだ状態からの過大過小でないずれに収まってる)かどうかが論点であって、
政治経済でそう限ろうと思ったら、場の性質を構成する主体に向けて上の教育を展開してる事が要件(これ以上の代替不可能化は現状無理と言えるようになる)であり、
既存の倫理や知性を振りかざす事(既存体系へのたらい回し的対応込み)は、その要件が満たされるのを阻害するわけです。
実際、尊重したり諦めたりなどで、先の態度に近い主体Aと遠い主体Bとの間のこの差異を、
捨象するのが確からしさ差の取り出し意味する局面だけでなく、扱い差として反映させるのが確からしさ差の取り出し意味する局面もあるのにもかかわらず、
区別できなくとも、
知的上層になれてしまう(常識や近代パラダイムへの甘え過ぎとしての過剰特化が許されてる)し、
文系者であろうと修正しないでいられる現状(上の例で言ってる流れ)があります。
そうした現状を、既存の教育(間接的なもの含む)と整合的な知性や倫理に固執するなど、保守する圧力に対し、
影響力をできるだけ削ぐ事で、これまでと異なる世界を現れやすくする為にも、
求め過ぎる者の登場問題(対秩序における古代末期以来のアキレス腱)を保存したまま
(各場の固有性に即した割り振りを追求しないまま)枠組みを洗練させてきた流れ(ヨーロッパの中世近代間で断絶あり)、
プラトンやカントの提示した割り引かれ構造自体に手を加える
(何ら加工されてない状態の準備と引き受けざるを得ない加工条件の追究、この内容の対加工作用でない)対近代
(抽象化や具体化条件割り出しの精度も、動性の劣化の阻止も、何を捨象するかに関する、加工作用をやむ得なさの反映に抑えた具体化にかかってるのに、
文理の分別含む、各局面での捨象対象選定を論点にできてない、
したがって、固有性に対する事実上の検討不在、対象にとっての引き受けざるを得ない要素の取り出し不全はじめ、
加工の有り様を局面事情等の場の固有性に帰属させる運動性への阻害許したまま、文系域での帰属の修正が語られる対近代)、
この二つのたらい回し展開
(より確からしいもの、より通用領域の広いものが取って代わる運動性を内実へは向かわせないまま、他より確からしいと言い張り、押しつけさえする構造に対し、
疑問を持たない、低通用物扱いが生じてるとは言えない、既存の知的上層の地平)
を押さえた全体像持つ人を増やしましょう。