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4118文字、受容に値する生について(生への割り引きを拒む生第一主義とは別のイメージで)、および、派閥性への言及

2023-12-004

理想現実関係を下で言う疑似問題や疑似解決としてしか捉えてない状態(ここから脱するルートがない点については、
プラトン以降に哲学者の肩書を掲げた全ての人に責任がある)のまま、社会有り様なり、個人の生有り様なりが肯定否定されてる状況に問題があるのであって、
この問題が例えば、現代日本の政治領域ではこういう現れ方をしてるだけ、といった捉え方を採用しましょう。


着目無視設定を局面に即させる働き(次元設定自在性という人間性によって可能になるそれ)を理性、
秩序(着目無視設定込み)が場の疑似でない個別性に即してる状態への支持的態度
(したがって、理性の実質でもあり、カント的理性では個別性捨象故に持ち得ないもの)をフェアと見なすとして、

対自己でのフェアを自由、対他者でのフェアを平等とした場合、自他の内在性質にとってそれらは、
内在性質を仮説として見た時の仮説改善を可能にする検証結果を齎すものと言えます。


(例えば、いらぬ恩を着せた上で見返りを望むのは過剰要求ですし、不当な役回りを引き受けないだけでなく、
妥当な役回りまで引き受けないなら、妥当な関係を拒んでる以上、不当な関係を要求してるのと同じです。

ここから、扱いの悪さに関する訴えが実質を持つには、妥当な役回りのみの引き受け、
かつ、妥当不当の分別と、修正余地なさという受容に値する為の条件を秩序から受ける整合が満たしているいない、言い換えるなら、先の意味でのフェアかどうかとの一致、

この二つが必要であると推測されるので、平等や自由の理念が、フェアを先立たせてない状態で求めてるケースを取り除けてない場合、
そこには不当な関係を要求してる側面が含まれていると捉えましょう。)



対して、内在不問外在軽視な典型自由観(この極端形と見なせる、ただ存在する的像にも言える話)には、
フェア(仮説改善を可能にするだけの具体化精度の確保)を仮説に先立たせるという要素がなく(極端形では上の意味内容の理性もない)、

主体視点では外在場に合わさない(検証を免れてる形なので、より確からしいものが取って代わる運動性に対して阻害的なのに、
確からしいものとして振る舞う帰属操作そのものでもあるだろう)絶対主義である為、

修正余地のないものまで受容に値しないもの扱いする過大要求な有り様と言えて、
解決不能なものまで解決対象にしてるも同然である以上、疑似問題に囚われてるとの意味で形骸です。


(原理やそこに投じられる具体化条件を把握する帰属修正は、対象認識における人間形式に組み込まれてるとすると、
ただ存在する的像は、直接性なり無作為性なり何らかの価値に、認識を帰属させた作用制限の産物に相当する事になると思われますが、

いずれにせよ、その像が目指されるべきものかのように語られてる事態に対しては、取り込まれないよう次の理解を重ねましょう。
例えば、学問系の本は、それが属する専門領域での現在や過去の位置づけ込みの情報体とも言えるし、
専門性を介さずに接するにせよ、個々人のその時の問題意識が反映されるとして、

こうしたバイアスをなくすべく透明な場を用意する試みも、局面要請に応えてる形なので、パラダイム性や個々人性を、局面性に置き換えるだけに過ぎず、
論理性や知性をこの用意のイメージで捉えてるケースも含め、内外性質統合から逃れているいない、というズレた論点の現れと見なして、
バイアスに修正余地なさを持たせているいない、という対外在での具体化精度確保に相当する論点へと修正するべき。)



また、原因と結果の関係は、仮説でしかない為、より確からしいものが取って代わる運動性
(その時点での上限としての確からしさ)への阻害の有無を論点とすべき(因果性自体への疑念も疑似問題として捨象してしまうべき)であり、
内外性質の統合結果という関係構造(実態)の把握についての確からしさ、内外性質の修正余地の有無という対象現象についての確からしさ判定、

この二側面が因果関係の把握にもあると認めつつ、後者の言い換えとして、抽象化具体化が不十分なら問題状態、
十分なら解決状態とする問題解決枠組み(特に、理想現実関係をこの枠組みで捉え直し、
この枠組み以外での捉え方を疑似問題や疑似解決として扱う態度)を伴わないと、現象理解は矮小化してしまうと解しましょう。

(この矮小化は、例えば、主語と述語の整合のような表層整合を、質問応答関係にも持ち込む事によって、負わされるに値しない部分には応じてない応答を持てなくなる事態などと同じと思われ、
対質問に限らず、この応答が機能した結果の否定反応まで過剰反応と見なす現象理解は、上の問題解決枠組みの不在故と解しましょう。)



以上から、受容に値する生とは(ニーチェ的な生尊重によって可能になるのではなく)、
呼吸の時点で問題解決であり、個々の問題解決を点とした時の線への次元飛躍が生である点を踏まえると、

上の問題解決枠組みと代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針(主語の切り出しや主語からの述語の切り出しに重なるだろう、有限能力故の限定性である、
取り上げる問題の切り出し条件、および、現時点での解決状態と言える為の条件に、修正余地なさを持たせるものとしてのこれ)から成ってる生
(実存の中身も、その実存を具体化条件とする関係も、その関係を生の話とした時の生の話に限定する前後関係も、上で言う解決状態にある生)であると考えます。


例えば、資本を握ってたり奪える立場にとっての都合の悪い言動の封殺に関する、直近や少し前のアメリカの事例なり、
派閥性がどの領域でも生じ得る点、遠近の肥大化が選抜や擁護に反映される点、両者の結び付きは非必然的ではあれ常に架橋し得る事実なりについて、

多様性不足(多様性確保の働きの不在)と現象解釈し、資格開放保障の理念化を共有する方向に(個々への疑似化してるしてないの差異を無視しつつの肯定は、
キリスト教や共産主義の経験から見て、秩序を担った途端、恐らく遡るとその無視の持つ秩序維持との相性に起因する理由で、諸々縛る展開となるだろうに)走るのは、

表層形反転でしかなく、秩序の歪み自体(帰属関係の修正余地)は解消されない疑似解決なので、
代わりに、局面と着目無視の不一致と現象解釈し、対局面のレベルでの具体化精度確保による対応問題として捉えつつ、

先の実存方針による具体的反応(理想に対する割り引きがこの方針の下で生じてるのなら修正余地はないので、
たとえ精神的に距離を取るだけという表層形であろうとも解決状態扱い)で応じましょう。



ところで、妄信と反動反発の表層形反転関係は、小中学生の時期から既に、親や教師やルールや現実等との関係において前景化してると言えるでしょうが、
まじめ不まじめ程度なら同時実現が可能でも、生真面目と不良となると同時実現は現実的ではないわけで、
同時実現できないケースでの両者の間の関係は、派閥性を帯びてると捉えても良いように思われます。

妄信も反動反発も強いほど、肥大化してない現実との齟齬、ひいては、自身を場に通用させるという存在課題との齟齬
(場の疑似化した性質にまで合わせてしまうと、いらぬ特化の分だけ低通用化する)が大きくなる為、

この時期から、いらぬ派閥性を抑える処理能力、つまりは、表層形反転関係があり得ると見て取った瞬間に内実確からしさ確保の視点へと移行し、
内実が確からしい表層形として採り得る選択肢の地位に、表層形反転関係含む表層形のバラエティを位置付ける能力の獲得課題が生じてると言えるだろうに、

実際には、個々人の(代替不可能な)内外事情との整合を優先する事なく、能力や情報や可能性の獲得
(有限性形態の表層形形成)を推奨してる教育論が牛耳ってる以上、この課題が教育に組み込まれてるとは言えません。


しかし、場に合わせる合わさないという表層形反転関係を利用した主張(例えば、目的と振る舞いとが整合的かどうかなど)を、文系権威が未だ乱発してる事実、
つまり、場の性質を疑似化部分込みで肯定したり、疑似化してない部分込みで否定したりを、肥大化扱いする事によって取り除ける派閥性が文系空間には無数にある事実に加え、

代替不可能な内外事情にしか応じない実存、あるいは、内外性質統合が、内在場の話と外在場の話に分解可能である点や、
場の置かれる前後関係を踏まえた抽象化具体化の交互反復として捉え直せる点から見て、上の処理は先の意味でのフェアと同等と言えるので、


フェアベースの自由平等は、上で見た架橋阻止の前段階から疑似問題の除去を利かせる事ができる
(実際、不当合理への批判にかこつけて過剰特殊を押し通すロジックやこの攻守反転形を、その乱発事例として捉え、説得力を認めないでいれば、

これらロジックをひたすら繰り返してるだけな言動を有り難がったあげく囲い込まれにいく展開もなく、
したがって、信者ビジネス的側面の弊害である実力観点の軽視も、架橋対策以前の段階から抑えられるわけです)し、


文系空間の知的様相を塗り替える可能性すらある(実際には、成功体験による視野狭窄の影響か、ぬるさが心地良いのか、
井戸の外についての提示を幻想だと切って捨てる権威が多いほど難しくなる上に、

表層整合に留まってる意味理解、より確からしいものが取って代わる運動性に対する阻害最小化の手続きを経てない意見表明、
これらに疑問持たない妄信性を派閥性として見立てる必要がある)、そう見なして良いと思います。



内在不問外在軽視な典型自由観と同様に、割り振られてるポジションの差異を解決対象とする平等観に対しては、
形骸扱い(怪我してるならしてるなりの、恵まれてるなら恵まれてるなりの最善かどうか等の差異を埋没させる有害観点扱い)し、

課せられてる条件の下での修正余地がないという意味での上限(代替不可能な内外事情にしか応じない実存、
場の疑似でない個別性に即した具体的扱いの引き受けを含むそれ)を誰もが求められる平等性
(これ以上無理という線引きの恣意化や勘違いを、つまりは、理想現実関係の疑似問題化、疑似解決化を防ぐ内容)に差し替えましょう。





圧縮版の冒頭と末尾

理想現実関係(抽象物と具体化条件の関係)に修正余地があっても修正する必要性を覚えない人が、
社会の有り様なり、個人の生有り様なりに対して肯定否定してる状況に問題があるのであって、
この問題が例えば、現代日本の政治領域ではこういう現れ方をしてるだけ、といった捉え方をしましょう。

平等概念で言うと、理想を割り引く程度を条件上の最小にする現実としての、代替不可能な内外事情にしか応じない実存
(外在場の疑似でない個別性に即した割り振りへの支持としてのフェア込み)を、

課せられてる条件(怪我してるとか、恵まれてるとか、子どもであるとか)によらず誰もが求められてる
(しかし、それ以上を求められる事はない、表層形に対して開放的な)世界ではない事に不平等を覚え、

課せられてる条件の下での上限であるのかないのか、という差異を埋没させる類の平等観を否定
(この具体形も、他人に働きかけているいないといった表層形を見るのではなく、上の実存を具体化条件にできているいないで肯定否定)しましょう。


中略


~この課題が教育に組み込まれてるとは言えませんし、

文系権威によって表層形反転関係(特に、不当合理と過剰特殊の間での他方への批判にかこつけた押し通しロジック)を利用した主張が乱発され、
表層整合に留まってる(下で言う十分不十分を見ない)意味理解、より確からしいものが取って代わる運動性に対する阻害最小化(理想現実関係)の手続きを経てない意見表明、
これらに疑問を持たない妄信性が既存権威を保全してるわけで、文系の学問空間もいらぬ派閥性に対し無策と言えて、

ここの理想現実ギャップを埋めるべく、個別性が根拠になる局面では同種の他との共通要素捨象を用いた、ならない局面では同種の他との差異要素捨象を用いた、
抽象化具体化が不十分なら問題状態、十分なら解決状態とする問題解決枠組みを、知性倫理美意識に先立たせてる言動の方に与していきましょう。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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