3808文字、帰属修正が先立ってる空間(認識場や社会)を準備する必要性について
2024-3-007
優劣が場の性質(その場で問題になってる事)を超えてついたり、異なる場に持ち込まれたりは、
場とその上に立ち上がってる秩序(割り振り結果や割り振り原理になってるもの)との整合が先立っていたなら起きない為
(対権威とか競争協調の具体形とか曖昧明晰スペクトラム上の点選抜とか、そういった話では局面と着目無視の合致が必要なので、
その合致と整合的な平等や自由を採用してない場合、言い換えるなら、フェアを越えた尊重に対し修正余地のあるものとして扱う態度を採用してない場合、
林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的原理不在に相当する整合不足がそれらに対しても、局面以外の場に関しても言えてしまう)、
肥大化した優劣を生んだり、肥大化した優劣に付き合ったりしてしまうとすると、
Aに帰属してるものがAの離脱にもかかわらず退場しない事態に許容的(同時退場について納得しようとしない積極的ケース込みなこの傾向が見られた時点で、
感情反応などの対事実含め、認識の肥大化に対する局面と着目無視との合致による阻止は上限化されてないと言える)であるなど、帰属修正と知性倫理美意識との間に距離が生じてると見なせます。
劣勢方向に過剰に引っ張る力の影響を抑えるには、帰属修正との間に距離が生じてる知性倫理美意識の産物よりも、
距離が生じてない知性倫理美意識の産物の方が支持される必要がありますから、
帰属修正が先立ってる空間(認識場や社会)と言える為の条件である、帰属修正の上限への志向、
つまり、内外境界の登場を意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、
この両者だけから成る帰属関係(修正限界)への志向を満たしているいないが焦点です。
なので、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてる(現象を内在性質と外在性質の統合として見た時の両性質の疑似性を剥ぐ帰属修正の、
実存への展開を獲得喪失に反映させる事で、できる事できない事等の有限性形態にそれ以上を求めると疑似問題になる修正余地なさを持たせてる)わけでも、
政治経済について、あるいは、帰属修正が先立ってる空間の下でないとむしろ帰属操作の現場になるもの
(感謝や謝罪をする能力なり、責任や助け合いといった概念なり)の扱われ方について、
代替不可能な内外事情にしか応じない主体像(と整合的な、したがって、修正余地なさというそれ以上求めると疑似問題になる為に受容に値する条件と言えるものを備えてる、
との意味で内実の確からしい獲得喪失)に対し肯定的な秩序観しか認めてないわけでもないのに、
劣勢方向に過剰に引っ張る力(当然、強者も弱者も引っ張られ得る)を拒絶してる側かのように振る舞う言動
(当然、修正余地なさを自他に対する受容条件とした上でそれを満たすよう働きかけてるのではない)に遭遇した場合は、
権威の付され具合によらず形骸扱いし、焦点が埋没する有害事例に位置付けましょう。
実際、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像でなさを修正余地と見なさない人の方が標準である状況は、
肥大化した個別性を根拠にするデカルト系や個別性捨象を展開するカント系が、
肥大化してない実態を根拠にする方向での修正を未だ受けてない事実から分かるように、文系権威にも言えます。
主体の振る舞いに対してであれ、文系概念の用いられ方に対してであれ、標準像とのズレを否定したり、
肯定(内在性質と外在性質が修正余地ない状態で統合してる自然現象部分以外での、
単なる実態露呈の根拠化込みなので、市場等の変化の根拠化も含む)してるだけも同然な理解力(知性倫理美意識)の産物が中身のないもの
(少なくとも、標準像含め対象の内実確からしさを問う本筋に対し、表層形しか見ない為に抽象度不足や場違いを引き起こす、
例えば、常識という標準像で言うと、幼児期以降は一面しか見えてない林檎だろうと視点の個別性を外す抽象化や付す具体化の処理は可能なわけで、時空の個別性に関するそれらの不備を検討する本筋に対し、
検討せずフェアを越えた尊重である冒頭の優劣付けを引き起こす、良くて次善の策止まりなものの帰結)として扱われるよう、
個別性が加工条件になってる現象における、加工前状態と加工条件の割り出しが上限である場合とのズレを受容に値しない部分として把握する理解力
(対象にとっての内在性質や外在性質の修正余地を意味するこのズレを超えて否定すると、否定した側が存在尊重にかこつけた帰属操作な内容の都合を対象に押し付けてる形になり、
このズレを否定しないと、対象が同内容の都合を外界に押し付けるのを許容してる形になる為、どちらも避けるのに必要)を、
その把握の形骸化抑制に必要な、個別性の取り違え最小化(同種の他との共通要素捨象)、
同種の個別性の新パターンに閉じない姿勢と共に、文系者に要求していきましょう。
例えば、マニュアルに頼るかどうか(取りこぼし覚悟で60に安定させるか0あれば100もある不安定を選ぶか)の硬軟問題は、
先に見たこれ自体が曖昧さを振り回される事なく取り扱えるかどうかの証拠になる、明晰曖昧スペクトラム上の点選抜の一種と解せば局面事情次第と言える為、
より確からしいものが取って代わる運動性に代替不可能な内外事情にしか応じない実存をもって対峙し、この運動性の受容阻害を最小にする生、
理想を割り引く程度を下げつつ現実を成り立たせるチキンレースでの即離脱的な対現実とは、肥大化した現実に対する態度が真逆なこれに回収しまいましょう。
ちなみに、上の運動性は常に確からしさの上限であるが故に真善美を包含してるとすると、この生は真善美そのものの体現でなくとも、
真善美と認識者との間にある理想現実関係の修正余地潰しの体現(真善美そのものとの間に生じてる距離に対し、
先に見た視点の個別性に関する不備を最小化できるだけという有限者故の届かなさ自体は認めつつ、存在するのと引き換えと言える有限性、言えない有限性を分別して、
負わざる得ない有限性に帰属してる部分は肯定、帰属してない部分は否定してる内容の知性倫理美意識を持つ)と言えますから、
修正余地なさを受容条件とした時の過大要求(満たしてても受容しない態度の現れ)である疑似問題と、
過小要求(満たしてなくても受容する態度の現れ)である疑似解決が、同時に防がれてる問題解決しか持たない文系者
(代替不可能な内外事情にしか応じない実存は、存在するのと引き換えな有限性しか持たない、
つまり、真善美との距離が最小化されてる為、何かができない事自体や何かをしない事自体といった表層形は論点でなく、
この実存である事、それ以上は要求されないという責任観や誰もがそれしか要求されないという平等観を持つはず)、
したがって、文系的な歴史や論理(理系と違い真善美と実存との間の距離についての個々主体の差異が捨象されない)を受容に値する状態へと持ってく働きかけの中身が、
抽象化具体化の交互反復である同一性変化性同時達成(既に展開されてるこれ)に対する、
同種の他との共通要素捨象(個別性の取り違え縮減)を用いた抽象化具体化の不十分さ解消である文系者、
当然、この捨象と文系的局面との結び付きを(欧米理系では同種の他との差異要素捨象を用いた抽象化具体化の交互反復による仮説改善がガリレオ以降のベースになってるのに)欠くせいで、
仮説改善が上限化されず、絶対主義含む過大要求系と相対主義含む過小要求系の少なくともどちらかを防げない欧米文系に対し、
その産物を真に受ける(この場合、局面と着目無視との合致を越えた尊重を意味する為、
ドーピングによる金メダル的茶番選抜と言えて、置かれてる場に通用させ続けるという存在課題、
既に引き受けられてる為に自身に帰属してるこれと適合する必要な差異を、人間においては次元設定自在性の下で、取り出す能力の内、
対文系事象でのそれの機能不全の現れ)事なく、不十分さ解消の対象にできる文系者にとっての前提である、
文系的現象を内在性質と外在性質に分け、それらの修正余地有無を検討した帰結を得る後者的理解力の下では問題状態(修正余地ある状態)ではありません。
注
Aであるという時点で内外境界(有限性)は発生していて、有と無が完全一致でない以上、有限性は存在に先立っており、
仮に、始点において有限性に先立つものとしての無限性が言えるとすると、無限性から有限性が引き出される構造を想定する必要があって、
個人的には、仮説が検証を通して改善(通用領域が拡張)される展開を包含する抽象化具体化交互反復がそれに当たると期待してます。
この場合、仮説改悪にならないよう、具体化精度が最大化されてる必要があって
(マニュアルのような次善の策の取り扱いと余裕の有無等の局面の性質とを整合させる必要性について認めてるとは言えない時点で、その人の仮説改善は上限化されてない)、
無限性を常に確からしさの上限であるより確からしいものが取って代わる運動性と見なすと、
無限性が無限性足るべく無限性の受容阻害を最小化させた有限性を要請してる形になるので、
本文で言ってる生と重なるのはもちろん、視点の一面性なり老や死なり、そうした有限性に起因する事態について、
有限性の代替不可能化をもたらす抽象化具体化不十分さ解消が論点になってないケースは疑似問題になると考えます。