民主主義を生かすべく、民主制の導入に付随させるべきものについての考察(新しい資本主義像についても若干触れて)
2022-8-001
政治に限らず咎めるに値する点は、理想と現実の関係に関してその対象が見せてる安易さ(有限の与件性を踏まえない態度込み)のみと思います。
何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、この両者が現状の最大限化
(つまり、割り引きなり加工なりの発生は前提として扱い、それらに内実の確からしさを与える処理)の下で合わさってるケースから見て、
乖離してる部分(上の安易さに相当する部分)のみを否定対象としてない肯定否定は、
要求が過小過大という意味で内実が確からしいものではないと見なすべきです。
政治に対する国民の肯定否定を政治に反映させるにしても、反映される肯定否定が形骸なら改悪フィードバック(反映し易さを生かせてない)と言えるわけで、
同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足を、文系事象における上で言う乖離部分として掴まえる教育、
そこの不足の修正(文系事象の内実を確からしくする働き)を理念や利害に先立たせる
(修正が先立ってない理念や利害は形骸として扱う)教育を、民主制の導入に付随させましょう。
表層形が望ましいかどうかを、内実が確からしいかどうかに先立たせていると、
奪われたり濡れ衣着せられたり、そうした帰属関係が操作されてる事態の上に成り立ってる平和のような、
表層形が内実の確からしくないものから成ってるケースを、余裕のある時でも
(つまり、表層形のみが問題になってる局面でもないのに、もっと言うと、局面の性質という具体化条件に帰属してないのに)許容してしまう為、
対文系でも内実の確からしさ差異を気にしない対象理解が修正されないまま、
例えば、文章を読んでも、書いた者が抽象化具体化の不足の修正よりも理念なり利害なりを優先してる事が分からないまま
(過去の振る舞いに対する肯定否定、というテキスト解釈問題も、要求の過大過小問題として、
どんな主体も課されてる条件の下での上限からの乖離は咎められるし、そこしか咎められない、
という対文化でも同じ態度を採る平等観をもって、例えば、対権威での過大評価過小評価を抑制する必要があるだろうに、
つまり、持ってる者なりの最善とか持たない者なりの最善とか、条件上の最善であるかを問う観点が文系局面でも埋没しがちなら、その人のテキスト解釈は表層的であると推測できるのに)、
知的上層(もちろん官僚込み)になれてしまうこれまでの教育(上の内容を持ってない教育)は、
負わされるに値しない限定通用的な都合を帰属関係に持ち込みたい者(通用領域を最大化させる能力が少なくとも原理レベルでは持たれてない点から、
持ってる理解も、仮説の確からしさを最大化させられない能力の下で得られたものと推察される人達)に付け込まれる隙(搾取余地)を、
見出したり、潰す能力について、子どもに持たせる事もなく(したがって、潰せてる振る舞いを、
潰せてない振る舞いよりも評価する事ができない状態にある子どもをそのまま)社会に送り出してきた(教育者の熱意程度に関係なく)と言え、
当然、付け込まれない政治(いらぬ非対等性が生じにくい政治)に貢献してきたとは言えません。
この状況を変えるべく、内実の確からしさ差異を(対理念ですら)肯定否定の根拠にする文系者の育成も、教育目標に加えてもらいましょう。
その場合、場に合わせる合わさないの表層形二択(相対主義絶対主義や厳格非厳格の対立構図のような疑似問題込み)な地平も脱却目標となります。
非対等性をはじめとする割り振りの帰結を、自分に都合が良いかどうかと関係なく、各場(内面世界なり局面なり社会なり)の疑似でない性質
(場に置かれるものにとっての有限の与件性が、自身に帰属してないものをしてるかのように扱ってる事態を防ぐ処理、
文系的局面の場合、対場において同種の他との共通要素の捨象に、十分にさらされてなお残ってる性質)の反映形へと、
(あらゆる場で持っていった先に、世界のあるべき姿を見つつ)自己が関われる範囲で持ってくよう
(疑似化を他の場の性質に越境されてるようなものと見て、越境しないしさせない態度をもって各場を尊重するよう)促す教育を通して、そこの脱却も達成してもらいましょう。
文系的局面で、同種の他との共通要素の捨象に十分にはさらされてない内外事情
(内在性質や外在性質が、自身に帰属してないものをしてるかのように位置付けたままの事情)が、
特に、十分にさらした内外事情(有限の与件性に帰属させる事で普遍通用化させた都合)にのみ応じてきた歴史から成ってるわけではない自己(負わされるに値しない都合を内包させてる自己)が、
根拠として持ち出されてる事態を、(文系における内実不問は搾取可能状況を齎すのに)否定対象(修正対象)扱いしてない価値体系(非対等性の有り様)に対し、
知性や倫理の機能不全の産物(帰属の修正余地がない状態へと向かう働きに阻害がある現れ)として扱ってもらう(既存の文系教育に対する否定込み)よう、教育者に求めていきましょう。
例えば、我々の認識は常に、通用領域の広狭と確からしさとの相関に頼っていて(通用領域が広い気がするものを選んでるだけで)、
その相関の持ち出し方が局面に合ってるかどうかの問題(局面が着目を要請してる差異に関して展開されてる時、その確からしさ判定は内実が確からしい)を、
各主体が内在事情外在事情の下で具体化してる感じかと思います。
上の要求は、問題との関わり方に対認識のレベルから、理想と現実(具体化条件)との間の安易でない関係を齎すものと期待します。
ちなみに、デカルトは上の相関を頼りに懐疑を語り、結果として、主観が内実の確からしさ不問なまま前提化されてる事態に対する修正圧力
(帰属の修正が主観に対して働く知性や倫理)のない状況を齎した、もしくは、強化したわけで、
そうなると、上の相関を始点として主観を組み上げる(局面と着目無視との不一致の反映を極力抑える事で、
主観が自身に帰属してないものをしてるかのように扱ってる事態を防ぐ)処理を含んでる上の安易でない対認識は、近代との決別でもあり、
したがって、上の要求は、内実を確からしくする働きを持たない(同種の他との共通要素の捨象が埋没してる)近代性を背景としてる教育との決別要請でもあり、
ひいては、それがそれである限り持たざるを得ない要素だけから成るという存在に即した対象理解を、文系的な対象(自他なり概念なり状況なり)について持てず、
そこと実際に為される表層的理解とのずれを、搾取可能状況(表層は同じでも中身がご都合主義という事態を可能にする状況)として世に放つ事になる近代的理解力の持ち主が、
民主制や市場において個々事情を反映させる者(割り振り原理の構築に参与する者)の大半を占める事態を防ぐ協力要請でもある、
そう言えるように思います。