対人や対現実などを自由と実質的に結び付ける上で要になるものが、表層形の着せ替えで解決したつもりになるこれまでの時代からも解放してくれるはず
2020-10-008
価値は場が決めると見れば、場と無関係に表層形(表層状態)をもって低価値扱いや断罪するのは不当ですが、
他の場での価値基準を越境させる事で結果的にそうなるなど、差別や不当格差を問題視してる人達も、知性十分と自認してる人達も、その次元から外に出ようとはしてないのが実情な為、
表層形の着せ替えで解決したつもりになる時代が終わらない(場との齟齬解消の程度に質を見る、平等や自由を見る時代に移行しない)のだろうと思います。
場の代替不可能な固有性を捉えられてると言えるほど、価値の割り振りが場と齟齬を来してるかどうかの評価が確からしくなる(表層的要素にかく乱されてない)のは内面という場にしろ、局面という場にしろ同じでしょう。
内面において高価値のものが、ある局面においては低価値という事もあるわけで、場の本質に即した割り振りを支持(フェア)してるなら、そこのずれに引っかかる点は理屈上ないと言えます。
内在場でも外在場でもフェアであろうとしてる形に、自覚の有無によらず近い程、引き受けざる得ないものだけを引き受けてる状態(代替不可能化された有限性としての有り様)にも近付き、
より確からしい(通用領域の広い)ものが取って代わる運動性(無限性)を割り引く程度も下がる(不必要な加工、有限化をしない)、
という構造があって、それが自由なり信仰なり表現なりの形骸性低減に相当してると考えます。
逆に言うと、理想を割り引く程度を条件上の最小に抑えつつの成立を良しとするチキンレース的構図における安易さ(理想と現実の排安易なバランス点を基準に、そこからのずれ)を、無理くり正当化してる限り、
それら表現等が実質を欠いてても欠いてない扱いする不当を許容してる、それらを尊重してるとは言い難い有り様と見なせるでしょうし、
ドーピングによる優勝という事態を不当な獲得現象(分捕りや泣き寝入り強いの発生)として捉えない様、妥当なケースとの間に扱い差を付けない様と同じ構造だろうに、
(アンフェアに許容的な態度は、場で問われてる差異の取り違えの放置の点でも、
負の表層形に引き受け妥当性を付与してくれる原理への志向の欠如が意味する、与件性不可避性としての有限性に向き合ってない事実の点でも、表層次元に留まってる証拠)
内在場外在場にフェアな者(場が決めるところの表層的要素に振り回されてない者)だけから成るよう最大限働き掛けてるとは言えない類の、
多様性確保によって個人なり社会なりが何かを得る構図に疑問を持たないセンス、多様性推奨を知性十分と捉えてしまうセンス(場との齟齬解消程度をスルーしてしまう鈍感さ)は、
例えば、存在性を(形式面の洗練度合はともかく)形骸的にしか扱えない状態と話が繋がってるとの推測も可能と思います。
ところで、一桁の歳でも後半にもなれば、親や先生を不完全さ持った一人間として捉える事(有限性の反映を免れない者としての人間扱い)が可能になるだろうし、
管理者ポジションに対する評価が実態に即すのが早いほど、過大評価(割り引くべきものをそうしない)に由来するいらぬ影響を抑えられ、後の反抗期的なものも大事にならずに済むと想像されますが、
十代に入るとそこに、実社会に段々近づいてく流れの中での現実(自身の不完全さの位置付け含む、割り引き要因となる事情の束)や生活圏社会(におけるルール)に関する同じ構造の問題が重なってくるように思われます。
いずれにせよ、不完全さ自体は前提として、やむを得ないと言える部分言えない部分をできるだけ正確に分けつつ、後者部分のみ認めない(後者部分の大小に扱い差を付ける)という方向性を背景に持つ展開とは異なる、
大事化させた反発の様相という、対象への不当な評価(やむを得ない部分まで含めた非難)を背景に持つ展開は、
それこそ反発を推進力にするなどして得たプラス的なものすら、不当に得たと見なせる部分を含む、そう位置付けられるとしたならば、
そこを正確に分け、負わされるに値しない部分(精神的に距離取るだけなり修正を働き掛けるなり、そこへの具体的反応は条件次第)を炙り出すのに必要だろう、
(見て見ぬ振りも大騒ぎも抑える配慮、つまり、局面と着目無視との合致の下での振る舞いに徹する姿勢への志向によって精度を最大化させつつの、)
個々具体から一旦、通用を行き渡らせた抽象状態へと遡り、代替不可能な具体化条件を付し直す作業としての加工原理(理想と現実を排安易にバランスさせる原理もこの一種)が、
対人なり対現実や対ルールを、それらの帰結を、自由と実質的に結び付ける(振り回されて不当利得まで働かされるのを防ぐ)上で要になってくるとの推測が可能なはずです。
その理解に、より盲従から脱し難いのだとしても、対常識や対パラダイム(知性や倫理の働かせ方)にせよ話は同じ(特定時空性を付し直した枠組みしか引き受けるに値しない)との見解を加える事で、
時代限界の弊害への対策として、上の加工原理の適用対象拡大や精度(捨象対象と局面要請との合致度)向上を本筋扱いする状況に、ひいては、場との齟齬解消程度をスルーしない時代に道が開けると期待します。