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政党に対し何を求めるか、どう捉えるかについて(リベラル化リバタリアン化が、次善の策以上の扱いとなる原因にも触れて)

2022-11-003

できるできないの両方に内実の確からしさ(代替不可能な内外事情の反映)を求めるなど、
優劣や個々都合に同じ肯定条件を付した存在尊重(投資や利権における有害な変化不変化の側面を抑えるものでもあるけれど、
通念的教育観における獲得感覚に染まってる時点でバッティングしてしまうそれ)が見られる、
対内実でもより確からしいものが取って代わる運動性を阻害させてない世界を目指すとして、

政党には以下の3点を掲げるよう求めるべきと考えます。


場(内面局面から国際社会まで)の上に立ち上がってるもの(形式や価値体系も含む)が、
場の性質の取り違えや変化に伴う形骸化で、場の疑似でない固有性の反映ではない(むしろ埋没させてる)場合、
修正対象扱いする(余裕のある局面なら、反映状態への修正を試みる)反応を、

つまりは、具体化精度への問題意識(この場は偶々こういう性質をしてるだけと捉えて過大反応を抑えつつ、
代替が利くかのように疑似化を許す過小反応も避ける、場への態度の反映でもあるだろうそれ)を、社会に持たせる。

(場次第性を無視した一般化を繰り返す知性、局面と着目無視を合致させてない為に過大反応過小反応化してる対他者や対流行、これらも修正可能な、
取りこぼされてる個々具体も含まれてる状態になるよう、抽象次元へと一旦遡り、その下で個々具体を捉え直す能力を、

自身の感情や思考に対してだろうと、概念の通念的解釈に対してだろうと、自分でいらぬ飛躍を見出し取り除く事で受容に値する状態へと持ってく能力として、
文系的にも機能させる内容への、教育の再構築も含む。)


具体化精度の上限を(優劣や個体集団の別なく)尊重条件とする態度を、政治主体にも経済主体にも求める。
(内実不問系の尊重はフラット化であれ聖域化であれ、局面次第では要請される時もあるに過ぎないもの、つまり、具体化精度の上限の下でのみ尊重される尊重スタイルと位置づけ、

具体的扱いによらず場から受ける整合は、場の疑似でない固有性の反映であるなら尊重し、
理想を割り引く程度の大小によらず、有限性の有り様が代替不可能な内外事情にしか応じてこなかった固有性であるなど、現実が代替不可能な具体化条件であるなら尊重するよう求めるとして、

この尊重観における理想現実関係は抽象化具体化の不十分さの解消問題であり、歴史性は抽象化具体化の交互反復に拡張した同解消問題となる。)


場の疑似でない固有性を保障する点での協力関係にあるなら、表面上が競争関係であろうと協調関係であろうと肯定するし、
同協力関係にないなら、表面上の関係がどうであれ否定する。


しかし、求めたところで、その内容から、既存新規によらず全ての政党に上で言う態度を持たせる話になる気がするので、
2+3を10とか100とか言い張る、存在と引き換えの要素以外も込みで根拠にする(自由とか皆の為とか言い張る)、これらの同列化の不在を、

言い換えるなら、同種の他との差異要素捨象への厳格さとは違い、同種の他との共通要素捨象への厳格さが教育を通して獲得されない為に、
対象に関する抽象具体関係構造の像構築(理解力や実力)が、表層の汚れを拭うだけで満足し内実に含まれるいらぬ飛躍は許容してる形になる実態主義で止まってしまう状況
(何かを切り捨てる根拠としてその意味の実態を持ち出した場合、いらぬ飛躍の分だけ不当であるのに、民主制や市場、あるいは、言語運用が実態主義に留まるなど)を、


いらぬ不幸が世界に生じる原因(少なくとも、内実に関して確からしくないものと確からしいものとが混同される搾取可能状況が、
表層次元でのいらぬ飛躍除去の達成に着目させて、その裏で内実次元のいらぬ飛躍を通す着目誘導による積極的な帰属操作をも可能にするそれが、

常態化してる、という意味で、優劣や損得や確定的不確定的を問わず、負わされるに値しないものを負わされる世界であり続けてる原因)
と見る理解の周知試み(デフォルト化された場の形成試み)の一環として、政党問題(政治意識の反映先)もあると捉えるべきでないかと思います。



ちなみに、リベラル化やリバタリアン化は、優劣に関する飛躍問題(先の大戦におけるそれは、哲学をサルベージする必要性まで覚えさせたように思われる)の観点では、
フラット化や聖域化によってそれに対処するスタイルと見なせる(脱構築の類は、軟化への優位付けによるフラット化なり聖域化なりと疑える)でしょうが、

しかし、先の不在を解消しない為、積極的にせよ消極的にせよ、内実に含まれるいらぬ飛躍(負わされるに値しないもの)を通す形になる、良くて次善の策と解せます。

ところが、実際にはそうなってない(本筋扱いする勢力もいる)わけで、この原因は、
パラダイムレベルから哲学が矮小化されてるのに、その状態の哲学が修正の必要あるものとは捉えられてない状況にあるのでないかと思います。

なので、例えば、テストの制限時間に合わせて検討への注力を調整するようなイメージを思い浮かべるとして、
質を放棄してでも成立を優先する局面、不確定を確定的に扱う局面もあり得る以上、通底レベルの前提まで検討対象になる哲学が放棄される生状況は当然あるにしても、

同種の他との共通要素の捨象アプローチの不在(つまりは、先の不在)故に、
生状況に関係なく常に、内実次元が検討の対象にならない有り様を哲学が強いられてる(その有り様を本来的な姿として受け取るよう強いる哲学者までいる)、

ひいては、局面次第で受容されるに過ぎないものがそう見なされず、一般化されてしまうものが出てくる(知性の失敗と言えるこの構造を乗り越えられないでいる)、
こう解して、先の不在に関する理解に、哲学の再構築の必要性も加えましょう。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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