2693文字、平等や自由を理想と見なす時の注意点について、対文章や対歴史における形骸性に触れつつ
2023-7-005
理想が割り引かれたものとしての現実、という構図はプラトン時点で既にあり、
理系はガリレオ以降、数学で自然を説明する内容(同種の他との差異要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消の対象として、この構図が捉え直されてる形)をしてる為、
哲学者に文系が今なお、同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化の不十分さ解消が論点になってない
(例えば、下には平等概念や自由概念が絡む主張に対する次の処理や解釈と見なせるものが含まれてるけれど、対文章や対歴史での、
この解消を内容とする修正が文系論理を内包させる処理として、あるいは、この解消の余地というその時点での上限からの距離まで把握込みなものが解釈として、位置付けられてない)せいで、
疑似問題疑似解決に塗れてる責任(同種の他との共通要素捨象に意義が認められてない為、
具体化条件をこの捨象に十分さらしているいないという具体化精度の高低が無視されてる具体形パターン網羅に、
ひいては、局面との合致へと向かわない点で表層形反転の関係にある、個別性が根拠になる局面での個別性捨象や個別性内実無検討に権威が認められ、
真善美と実存との間の関係もこの権威の射程な為に、認識現象や存在現象から疑似問題、疑似解決の側面を取り除けないでいる責任)を見ましょう。
思うに、フェア志向でない人は、ドーピングによる金メダル的な選抜を文系事象の位置づけに関して為していて(自分で形骸化させてる選抜結果を真に受けてる形)、
理想ポジションに何を置くか、現実ポジションに何を置くかの判断も、当然その種の位置づけに含まれてるはずです。
ここで、抽象化具体化の不十分さ解消状態(代替不可能な内在性質外在性質の統合状態)を、
解消結果が(個人にとってであれ社会にとってであれ)望ましい表層形をしてるしてないによらず、
受容に値する状態(有限の与件性、つまりは、内外境界発生の与件性の下での確からしさ上限の意味で修正余地がない、その時点での解決状態)として扱うなら
(そこの解消以外の部分を疑似問題や疑似解決の混入部分と見なす問題解決観を採用するなら)、
フェア志向でない人の思い描く理想現実関係は、常に修正余地のあるものと言える事になります。
場で問われてる差異と着目無視設定とが合致してるならフェアである(代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてない人は、局面事情に対するその態度からフェア志向とは言えない)と認めるとして、
例えば、個別性が根拠になる局面(文系的局面)で理想ポジションに平等(多様性等)を置きたいなら、
個別性が疑似化してるしてないを区別しない平等(具体化精度の高低が無視された具体形パターン網羅の類)よりも、
疑似化してない個別性を根拠に振る舞う主体だけから成る状態へと持っていった上での平等を選抜する方が、
フェアな選抜結果(上で言う合致を保った選抜結果)と言えるように思います。
それも認めるならば、個別性はその時点での仮説に過ぎませんから、仮説と検証実験の関係、具体化精度の低い情報の収集についての有害性が示唆されるそれを踏まえると
(言葉の意味合いやニュアンスの変遷のように、特段確からしさ向上を伴わない展開性も歴史の側面と言えるけれど、
この側面であれ、同一性と変化の関係、抽象化具体化の交互反復から成るそれが受容に値するかどうかに関して、先の対文章と同じ問題がある)、
主体の置かれてる場の性質を主体の具体化条件と見なした時の、具体化条件の疑似化程度の高低(具体化精度の高低)によって、個別性は確からしさが改善改悪する
(問題解決スタイルを内在的なそれである自我と外在的なそれである文化とに分けて捉える場合も、この内在外在間で抽象化具体化の不十分さ解消の問題がある)為、
結局、文系域での平等の形骸でない追求は、フェア志向な主体が極力増えるような働きかけに他ならない事になる
(有限の与件性レベルの受容せざるを得なさへと持ってく働き、という意味で形骸でない知性倫理美意識に適う、したがって、奪う奪われる現象から最も遠い内容の平等化と、
真善美と実存との間の関係が受容に値するのは実存が、有限下での確からしさ上限の意味で修正余地がなく、フェア志向も包含してる上で言う実存の時だけとする理解とは、整合してる)気がします。
(この働きかけは、主体が自身の疑似化状態から解放される、かつ、自他に対するフェアを越えた救済や尊重から解放される点で、自由の追求とも言える上に、
場の固有性に対する疑似化除去がフェアの中で機能してる限りにおいて、内在場外在場の個別性を根拠にしてる有り様の追求になるので、
内在不問外在軽視な通念的自由観、不当合理への批判にかこつけた実態保障という文脈の分だけ過大評価を含む露呈観、こうした表層次元での反転反応傾向物よりも、
修正余地のない自由像を、文系域での理想ポジションに置いてる形にもなってると思われます。)
自己であれ、他者や他種であれ、無生物や概念であれ、対象について問題が生じているいないの判定と、
抽象化具体化の不十分さが解消されていないいるの差異(有限の与件性レベルの受容せざるを得なさが受容条件になっていないいるの差異)とが、
ズレてる人の知性倫理美意識の働きには、ズレの分だけ疑似問題や疑似解決の混入が生じてる為、
そこのズレ把握の精度が高いほど、結果的にか生じてる受容せざる得なさの強弱偽装(奪う奪われる現象の隠蔽)を、
例えば、社会や社会性に関して提示された在り方像に含まれてる修正余地ある帰属関係(修正余地ある帰属関係像Aから同Bへの着せ替えに過ぎない話)を、
何らかの権威用いて(実際、余裕があってなお単なる表層形反転などの、内実の確からしさ向上、言い換えるなら、受容せざるを得なさの強度向上に対しコミットしない処理に留まる提案は、
未だ知性倫理美意識の権威者の仕事に、そうした向上の余地を覆い隠す働き伴いつつ見られる)ごり押ししてこようが、
真に受けずに済む(修正余地のないものかのように扱わずに済む)ようになると解しましょう。
個人に対しては代替不可能な内外事情にしか応じない主体像(実存がこの内容である時の内面世界の性質)である事、
社会に対しては同主体像の集積(から成る場の性質を損なってない体系)である事、これらの要求に、
自己から何らかの意味で遠いポジション(全体像踏まえた自己の捉え直し込み)や社会における特定ポジション(標準性の高低によらない)へのコミット要求が、
先立ってる理屈に取り合うのは、付されてる権威が強かろうと、もう止めましょう。