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4141文字、肯定否定反応を肯定否定する類の議論について、対哲学において先立たせておく必要のある志向にも触れて

2025-1-002

対象が修正余地を抱えていたとして、そのまま肯定するのは修正余地部分に対してまで修正余地なし扱いするよう自身に強いてるのと同じです。
否定する場合に問題となるのは、修正余地部分だけを修正余地として扱うのに失敗してるケース(修正余地把握の過不足による過剰肯定や過剰否定の側面発生)であって、

例えば、対常識においてこれを防ぎたいなら、対象から特定時空性を可能なだけ剥いだもの(抽象状態)に、
引き受けざる得ない特定時空性(具体化条件)だけを付し直したものと実際有り様とのズレ部分のみを修正余地扱いする必要があります。

文系事象に関するこの種の処理には、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化が必要なので、
この抽象化具体化についての十分不十分という評価が機能してないなら、否定反応自体が、
そのまま肯定して良い内容をしてない(修正余地を持つものとして扱われるべきものである)わけです。

しかし現状は、同種の他との差異要素捨象(個別性捨象)を用いた抽象化具体化の十分不十分と肯定否定とを一致させる事はできても、
同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の十分不十分と肯定否定とを一致させる事はできない人を量産してる既存教育の関係で、
文系者は権威ですら、そのまま肯定して良い内容は文系事象における個別性が根拠にならない局面に関する肯定否定反応に限られてると言えます。


(例えば、文系学歴に対する批判の内容が、中核能力の獲得程度を、理系学歴は反映できてるので問題ないけれど、文系学歴は反映できてないから、
という内容であれば当然、文系学歴やその権威が形骸化してる点を批判してるわけで、

しかし、この議題に関して、妥当部分だけでなく不当部分込みで肯定されてる事態と不当部分だけでなく妥当部分込みで否定されてる事態の二択になってる人は、
対象の全体が批判されてると受け止めた上での肯定否定反応になってしまいます。

議論不全に加え、修正能力不全にも繋がるこうした内実不問な反応パターンに陥るのを原理レベルで抑える方向性を、文系事象に関しては潰してるのが既存の教育である為、
既存の教育有り様を肯定しながら、社会に見られる内実不問な反応やそれに伴う修正能力不全を否定していたら実質矛盾ですし、

個別性の取り違えを個別性が根拠になる局面での論理飛躍として扱ってない既存の教育有り様を肯定してる人は必ず、
存在するのと引き換えではない要素まで存在に帰属させているいないの差異や、帰属修正が権利感覚に先立っているいないの差異に対してをはじめとする、何らかの内実不問を助長してます。)



実際、対格差であれ対差別であれ、具体化精度(置かれる場に合わせる際の過不足)が論点であれば、
何らかの意味で優勢な状態、劣勢な状態に対する肯定否定の根拠は、場の取り違え最小な個別性に即した優勢劣勢との乖離具合のみになる
(肯定否定反応は、無数にある場それぞれで場の取り違え最小な個別性に即した秩序が最大限目指されてさえいればそれで良いとする世界観と、ひいては、いらぬ前提を持たない世界への志向と整合し、

表層次元に縛り付ける既存教育の弊害、例えば、平和なり何なりの名の下の泣き寝入り強要による否定的反応の封殺のような、
個々の場が帰属修正的か帰属操作的かを問う内実観点を個別性捨象によって無化し、
帰属修正が先立ってない理念をもって搾取を正当化したりされたりがまかり通る状況とは整合しない)はずなのに、

表層形反転をもって解決とする知性倫理美意識(不当な部分まで肯定されてる事態を妥当な部分まで否定されてる事態に、
妥当な部分まで否定されてる事態を不当な部分まで肯定されてる事態に変えるだけの上下論的発想)が文系空間で影響力を持ててしまうせいで、

肯定否定反応は、修正余地のなさ故に受容に値する状態へと導くものではなく、修正余地を抱えてるものの中で都合の良いものを押し付ける為の道具に成り下がり、
反省概念は優勢劣勢有り様の操作機会と結び付けられ、反省課題は権力を奪い合う舞台に成り下がってる

(この帰結と言える有り様に対し、場に合わせる合わさないの二択や曖昧明晰の二択に代表される表層形反転な対応を推奨してる人達、
あるいは、権威を持つ身で表層形反転な対応と機能してる知性倫理美意識とが合致してるかのように振る舞ってる人達には責任がある)わけです。


(優劣差異の発生原因を、内在的な問題解決スタイルである自我自体や外在的な問題解決スタイルである文化自体に見て、
個人や文化について、内容を入れ替え可能なものとして扱う統合放棄や存在を同様に扱う個別性喪失を理念化した枠組み、

自我の肥大化や文化への過剰特化も防いでる代替不可能な内外事情にしか応じない実存への志向があれば生じない原理不在の下で、生存等の問題解決に臨むよう強いる虐待であるこれが権力を得る展開もあるわけだけれど、
優劣差異の無化を目指す特定の枠組みが暴力的であるとか、暴力的なものへと歪曲化されると解するのではなく、

局面含め、また、主体の内在場か外在場かによらず、場の取り違え最小な個別性に合わせる内容の整合のみが場に置かれてるものにとって受容に値し、
その整合から見て過不足のある状態は、場の実態に由来する権威が付されてようと、場の実態との乖離部分の受容を強いる権威が付されてようと正当化されない為、
場と無関係な優勢劣勢有り様を望んだ時点で既に暴力的であると解しましょう。)



そもそも、修正余地がない(それ以上を求めると疑似問題になる状態)とは、
有限(内外境界発生)の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性にのみ帰属がある状態の事であって、

肯定否定の根拠は、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関(を踏まえた、通用が行き渡っているいないの判定)であり、
この相関にしか頼ってない(この相関を始点にしてる)と言えるのは、この相関を持ち出す際の観点(着目無視する差異の設定)に対してもこの相関を適用
(いらぬ前提を取り除く処理に相当し、先の不十分十分はいらぬ前提の有無に相当する)してるケースなので、


個人の為す肯定否定(何らかの選抜も、内面世界での優勢劣勢有り様も、受容に値するとの判断の帰結と見なす)では、代替不可能な内外事情にしか応じない実存と観点との整合が、
社会の為す肯定否定(個人の場合と同様に捉える)では、同実存の集積と割り振り原理になってるものとの整合が、

確からしさの上限であると解し、それらにおける整合してない部分にまで付き合う
(上の相関を方法的懐疑の根拠にしておきながら始点にしなかったデカルトが前提になってる枠組みに付き合うのも、
いらぬ前提を持たない自己や世界への志向を先立たせてないと、いらぬ前提を取り除く働きが機能してない部分を必要以上に取り逃すだろうに、対哲学のこの意味での内実を見ない哲学観に付き合うのも、事実上同じ)のは、

自身に対し負うに値しないものを負わせてる状態、つまり、修正余地のある状態(そのまま肯定できない状態)に自身を追いやる事になる
(上の実存を自他に要求するという主題を上の実存をもって具体化してるのであれば、

自身の置かれてる社会が、社会に置かれてる人に対し、修正余地があるかないかというレベルで負うに値しないものを負わせてる状態に関する、
その人の為す修正の働きかけ、ひいては、自己や他者の負わされ程度の緩和には修正余地がなく、この意味で上限と言える為、
その主題を持たない時点で、自己尊重や他者尊重にはいらぬ負わされの許容が含まれてしまってる)と捉えましょう。



ところで、具体形パターンが網羅されてない抽象物は、検証されてない領域(通用しているいないが判明してない領域)を持つ仮説と確からしさの点で変わらない以上、
今後新しい具体形パターンが発見される可能性に対し開かれてないと確からしさの上限化を放棄してるのに等しい為、
絶対主義的な態度も、割り引かれ自体を忌避する自由観も、より確からしいものが取って代わる運動性に対して受容阻害を抱えてる証拠です。

もちろん、精度の低い実験の結果をフィードバックすると仮説改悪に繋がる以上、
相対主義的な態度も、場の性質とは無関係に内実不問を展開する平等観も、同証拠です。

より確からしいものが取って代わる運動性の受容が先立っていれば、絶対主義と相対主義は同時否定されるわけですから、
絶対主義と相対主義の二択や上下論を踏まえた言動をする人、および、具体化精度が論点になってない枠組みは、
より確からしいものがあるのに正当な理由もなくそこに至ってない、という否定反応が選ばれる条件を満たしてると言えます。

また、全ての主体が不完全性を認められ、かつ、いらぬ不完全さを認めてもらえない、
という内容の対等性は、その帰属修正作用をもって絶対主義や相対主義の弊害を防いでるので、
この対等性が保存されながら役回り上生じてる非対等性は内実が確からしいと言えて、

同様に、前に出るのも後ろに引くのも、この対等性に対する維持や接近として働くのなら肯定され、遠ざかる効果を持つのなら否定される場合は内実が確からしい為、
積極性や消極性をそれ自体として肯定否定する表層次元縛りは、絶対主義と相対主義を同時否定する枠組みの不在、つまりは、具体化精度確保という問題意識の不在の弊害と見なせます。


こうした理解を先の暴力観の根拠としても、優勢劣勢有り様や役回り振り分けの、場の個別性への帰属を損なってる側でなく、
保障してる側である点をもって受容に値するとする権力観の根拠としても認めると、

教会の都合に由来するものから、個人の精神を分離したデカルトと国家の権威を分離したホッブズの修正点は重なっていて、
デカルトを肯定しながら語ってる、あるいは、主体の内在場や外在場の個別性に関する防げる類の取り違えを論理飛躍扱いしないまま

(場の個別性に合わせた整合の肯定が場の尊重である為、場の尊重の形骸化を、特定の場に話を限定しない原理レベルでもって防ぐのを放棄してるのに等しい)語ってる政治哲学には、
取り合うだけの価値はない、この主張についても認めざるを得なくなると考えます。

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欧米文系の権威からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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