3666文字、平等概念を履き違える原因としての理解力像問題について、近代以降の政治を補完するものも検討しつつ
2024-3-004
数学と自然を架橋したガリレオ以降の理系域では、同種の他との差異要素捨象(個別性捨象)を用いた抽象化具体化の不十分さに対する不備扱いが理解力像に組み込まれてる一方で、
個別性が根拠になる局面を基本として持つ文系域では未だ、同種の他との共通要素捨象(個別性の取り違えを抑える処理)を用いた抽象化具体化の不十分さに対する不備扱いが、
理解力像に組み込まれてないので、組み込まれてる内容へと理解力像を更新しましょう。
例えば、計算が苦手な人がいたとして、更新した像の下では、
その不得手さが、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてる結果のもの(修正余地なさを持たされたもの)であるかどうか、
および、その不得手さが実際に受けてる扱いと、その人の置かれてる場の疑似でない個別性が場全体に行き渡ってる秩序において受けるだろう扱いとのズレ具合、
これら不備の把握も理解対象であるわけです。
当然、計算の得手不得手が問われてない場なのにその不得手さが扱いに反映されてる、といった越境は修正余地扱いですから、
場で問われてる事の取り違えも越境の一種なので、存在まで否定してないのに存在まで否定されたかのように反応する過剰性も、
ドーピングによる金メダル的に扱い差に反映される差異を操作する茶番選抜に対して否定しない態度も、
カント的処理不全(個別性が根拠になる局面での個別性捨象)とデカルト的処理不全(個別性が根拠になる局面での疑似化込みな個別性の根拠化)の二択に対文系事象の地平を縛る近代性パラダイムも、
単なる理解力不全の現れでしかありません。
こうした不備(具体化精度不足)を修正余地として取り出せるなら、扱い差自体を問題にする、
つまり、序列をつける対応なり格差が生じてる事態なりに対し、悪扱いという序列付けを展開するご都合主義(知性倫理美意識の権威を付してまき散らす人さえいる)については、
歪んでいる部分いない部分まとめて対象を否定する過剰否定(反動反発)に見えるはずですから、
平等概念をご都合主義という原理不在状態(抽象度不足)に追いやり、越境(場への尊重の放棄、
ひいては、内面世界や局面、大小様々な社会への尊重における原理不在)に対する都合の良し悪しに合わせた肯定否定の正当化に用いるか、
修正余地なさ(具体化精度の上限化)を平等概念に先立たせるかは、文系的な理解力像の問題に思われます。
ところで、ミスにも大小あって、小さいほどスルーするしないは状況次第性が高くなりますが、
文系事象に対する理解力に自負があるにもかかわらず、問題状態への反応について置かれてる状況との齟齬を最小化させる気のない
(自身の具体化精度を問題にしてない)人がいた場合、その人の対文系事象での理解力像は更新前と見なせます。
状況にあっているいないの判断は常識なり文化なり時空次第な側面もあります(絶対的なものではありません)から、
特定時空性を可能なだけ剥いだものの準備と引き受けざるを得ない特定時空性の割り出し、この上限化を妨げるもの、
つまり、性質を取り違える事なく場の性質変化について行く具体化能力とバッティングする諸々
(絶対主義や相対主義への肯定的態度、あるいは、余裕があってなお次善の策に頼る過保護傾向)は、理解力像が更新前である証拠であり、
更新前の理解力像を修正余地のあるものと見なせば、対文系事象での理解力が不十分である証拠です。
更新前の理解力像に立脚してる理解力を不十分なものと認め、例えば、帰属してるはずのものが帰属してない、
あるいは、帰属しないはずのものが帰属してるといった訴え(自由の観点や平等の観点に限らず)も、
内在不問外在軽視(重要でないものも肯定する対内在と重要なものまで否定する対外在)や、
内在軽視外在不問(重要なものまで否定する対内在と重要でないものまで肯定する対外在)の下で為されてるなら不十分な理解力の下での現象解釈として扱い、真に受けるのは止めましょう。
対市場で言えば、代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映でない需給事情込みの市場を正当化すべく、
反映でない部分に対する否定が内容の糾弾を、その実存の反映である需給事情込みで市場を否定する反動反発系と同等扱いする矮小化操作や、
反動反発系を正当化すべく、その実存の反映である部分に対する肯定が内容の糾弾を、全肯定系と同等扱いする矮小化操作に、
丸め込まれてしまう人が減るよう、文系的な理解力の像の更新推奨(教育に組み込む事ができれば、
実社会や学問世界に参入する前までに更新可能)を主題として持ち、上の実存をその具体化条件
(当然、内外事情次第では具体的動きのないケースもあるし、局面事情から乖離しない、
つまり、余裕のない状態からある状態への移行があれば次善の策に頼り続ける事もない為、成立自体を重視する表層次元立脚の肥大化もない)としましょう。
(主体が人や国家や企業であれ、何についての獲得喪失であれ、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像と整合的な獲得喪失と実際とのズレを、
帰属関係が操作されてる部分として修正対象とする、この反映である肯定否定から見て過不足ある肯定否定は、いらぬ不幸自体の否定になってないと解しましょう。)
ちなみに、局面の固有性と着目無視とを合致させながらの対他者や対自己という意味でのフェア
(これを越えた救済は疑似問題扱いする処理と表裏)をはじめとする、場の本質の下での平等は、
個別性が根拠になる局面での同種の他との共通要素捨象が機能してる限りにおいて、
場の性質の取り違えを最小化しつつ場と齟齬のない秩序を構築する方針と同等ですが、
この方針を、そのように構築されるようプレーヤー立場と管理者立場がそれぞれの立場から協力する、この観点に沿う要求のみが他方に対して通るという政治観に拡張すれば、
分離処理への過大評価(ひいては、負わせるもの負わされるものが修正余地のある有限性の産物か、修正余地のない有限性の産物かという内実問題を、
埋没させるレベルでの表層問題への関心)が言える近代性に縛られた秩序観(分離処理で倫理に対抗する発想込み)を乗り越えてると考えます。
(感情と理性の関係における論点は、上下論でなく、内面世界での割り振り結果の一種である感情を局面に合わさせる作用としての理性という関係における、
内面世界の割り振り原理である内在場固有性、および、局面の具体化条件である外在場固有性の取り違えを最小化できているいないの差異であり、取り違えを抑えるのが同種の他との共通要素捨象である。
この構造は国にも言えて、国の内在場の個別性に対する取り違え抑制については、
内在場に置かれてる主体のすべてが、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像から乖離してない状態に寄せる方向性、上で見た教育への組み込みがベースであるこれと、
行動原理を仮説とした時の、実験精度の低い実験結果のフィードバックは改悪になる的理解を押さえつつ、仮説改善を上限化する方向性、
上の主体像に情報獲得を整合させつつの、他国の事例込みな歴史情報の参考がベースであるこれの二つが考えられます。)
また、理想現実関係が更新後の理解力像における不備を持たない(未来で現実によって割り引かれる程度の大小がどうなるか、
つまり、理想に対して近づくか遠ざかるかによらず、不備を持たないポイントを紡ぐ歴史になってる)と言えるには、
限定を受ける前状態の準備とそれが負う限定に対する引き受けざるを得ないとは言えない要素の削ぎ落し、これらの上限化を内容とする必要がありますが、
より確からしいものが取って代わる運動性を理想ポジションに、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を現実ポジションに置いたケースは、その条件を満たしてると言えます。
このケースにおける実存者は常に確からしさが上限状態なので、課せられてる条件によらず条件上の上限を誰に対しても求め、それ以上は求めない平等性
(持つ者は持つ者なりの、持たない者は持たない者なりの役回りがあるだけであって、求められてるものも、負う責任も実質的には同じというこの内容は、
助けられる側として生まれてきて助ける側に回り、また助けられる側に回るという現実ともバッティングしてない)における求める中身に相当すると共に、
上の運動性を無限性として捉え直す事で、信仰対象を過剰に割り引く信仰形骸化が阻止されてる状態と解す事もできます。
したがって、宗教からの国家権威の分離における、分離した双方それぞれの修正余地を取り除く話と、
同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さに対する不備扱いが機能してる場合
(自己についてはこの不備を見ようとするが社会には見ようとしない、あるいは、その逆といった原理不在が見られた時点で機能してるとは言えない)の上の二つの平等の採用とは同じ事態と言えるので、
この採用は、分離処理やその次元で止まってしまってる近代以降の政治を補完するものでないかと期待します。