格差の疑似化についての責任や、格差の意味合いの肥大化についての責任は、誰や何に問うべきで、修正方向にはどんな差し替えが相当するのか、という話
2021-12-008
フェアを越えて何かを助ける分だけ、負わされる筋合ないものを負う事態がどこかで生じてるわけで、
フェア(各場の固有性に即した損得なり役回りなりの割り振りへの支持)を越えて自己を助ける(自己が助けられるのを許容する)人が多い程、
格差は疑似化すると解しましょう。
フェア志向でない人の文系的言動を、客観化できない人の理系的言動と同じ水準の知的位置づけで扱う
(例えば、自分を棚に上げた批判を、林檎や蜜柑を数えるといった具体形パターンから、数を数えるという抽象次元に遡る的能力が不全な証拠、
つまり、原理抽出能力が十全には機能してない証拠として扱う)教育環境がない、
もっと言うと、理系的局面では、同種の他との差異要素の捨象次元の維持(の下での抽象化具体化の交互反復による通用の行き渡ってる状態、つまり、選ぶに値する状態の保存)を要請し、
文系的局面では、同種の他との共通要素の捨象次元の維持(同上)を要請する教育環境がない(前者要請が後者局面にまで及んでる)せいで、
理想現実関係を、抽象化具体化の精度最大化枠組みに落とし込めてない、つまり、諸々の理想現実関係が安易なものでないかどうかを判断できない
(例えば、過保護を具現する道具と化してる倫理の域を出ない、表層形断罪レベルの言説を通してしまう)状態で政治を
(妄信系と反動反発系の二択に地平を縛る事によって、自ら政治を矮小化するよう仕向けられたも同然なのに)評価させられ、民主主義に至っては政治に責任持たされる、
代替不可能な内在事情外在事情にしか応じてない主体像やその産物への選好を持たないまま、消費行動や投資行動を展開してしまう
(選好が集積してる方向ほど、経済的に存在しやすくなるわけで、
通用を内実に行き渡らせてる形の上の主体像を良貨として見た時の、悪貨が良貨を駆逐する現象の構成要素に成り下がってしまう)、
抽象化具体化の交互反復から歴史変遷は成ってるとした上で、抽象化具体化の精度最大化により果たされる通用性の取りこぼし阻止(確からしさの向上や確保の形骸化阻止)だけを、
責任として過去に対しては問い、未来に対しては負う歴史観を持たないまま、自分の人生はじめ、何らかの歴史に向き合わされる、
要するに、内実の確からしさ(取り上げるに値するものを各場の疑似化されてない固有性に決めさせてる点、
つまり、各場へのその固有性の発現阻害を防いでるとの意味で、形骸でない尊重)をもっては肯定されず、
表層形で肯定否定される為、格差の意味合いが肥大化してる世界の維持に、
自力で後者の次元維持を採用したのでもなければ、加担させられてきたと解しましょう。
できるという状態の通用領域拡大を量的に語る(実質持つ持たないを気にしない)推奨には、
教育者ポジションにそれは珍しくないし、教育もその内容をこれまでは持っていたわけだけれども、耳を貸さずに
(ドーピングによる金メダルは今何の差異が問われてるかを取り違えてるわけで、
その種の獲得や選抜を実質持たないもの、負わせる負わされるに値しないものとして、実質持つものとの間に扱い差つける生を選び)、
代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像
(内在場外在場の疑似化されてない固有性に即した体系への支持も含む為、フェア志向や帰属検討も内包されてるそれ)から自身を、
乖離させてまで何か(情報や能力、ひいては可能性すら)を得ない、乖離させた状態で文系的選抜を行わない(過大評価過小評価をできるだけ避ける)、
内実の確からしさ確保を先立たせる姿勢と整合的な知性や倫理を自他に求め、
内在不問外在軽視な解決像を内容とする自由や平等や権利感覚を
(外在事情軽視の集積は、強権行使の動機が生じた時に反応を大きくすると、少なくとも理論的には言えるだろうに)理念としてきたこれまでの世界は、
貸すべきでないものに耳を貸してきた形
(耳を貸した結果が、
プラトンカントよろしく割り引かれ自体は不可避と認め、加工の不可避性を前提とした上で、
場の代替不可能な固有性に即した加工から見た過不足を疑似化部分として取り除く事に、
言わば、絶対主義と相対主義の同時否定に、解放や尊重を見るのではなく、
むしろその疑似化部分までをも選べるよう廃棄に抵抗する枠組みに、解放や尊重を見るのを、
当然、負わされる筋合いないものを負う事態の発生と引き換え、つまり、格差の疑似化と引き換えなのに、辞さない倫理者に牛耳られてきた世界)と解しましょう。
ちなみに、自然言語における主語述語関係を、
取り上げるに値するものを世界から切り出してきて、それからさらに切り出す二重の切り出し作業が、
自我(内在的な問題解決スタイルであり、単なる分離で済ませず、次元設定自在性という人間性に表層的要素を捨象する姿勢でもって質的にも振り回されるのを防ぐ方向をも、そこに求める時代へと替えるべき)と、
文化(外在的な問題解決スタイルであり、学問場や芸術場もその産物)という両偏りから成る場の上で展開されたもの、
そう見れば、抽象化具体化の精度最大化をもって通用性の取りこぼしを阻止する箇所が単純に考えて六つあり、
そのすべての精度最大化を個々具体に含む抽象具体関係構造(実力)がない段階では、
主語述語関係を選ぶに値する状態へと厳密には持っていけない、自然言語を過保護具現の道具化状態から解放できないのに、
既存の教育は文系者に対してさえ、同種の他との共通要素の捨象能力を育成せず、
国語教育も、形骸物を形骸だと理解できない人の再生産サイクルが回ってるだけと言える以上、
我々は像を取り出す処理の次元から、質をケアする生(負わせる負わされるに確からしさを求める生)を奪われる環境に置かれてると認識しましょう。