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現パラダイム下にある文系者の理解力や思考力は、具体化精度の高低差異を対象位置づけに反映させる修正が必要という話(デカルト系を刷新する始点に触れつつ)

2021-8-004

有と無が完全一致でない時点で世界は内外境界持ち(有限性が与件)と考えます。
また、否定行為は、通用が行き渡っているいないの判定を扱いに反映させるべき局面であり、判定基準にはこの観点が確からしい等の、判断の結果と思われます。

前者(必ず限界ある)を例えば、必ず負ける場合の負け方を何でも有りにするか、しないならどう限定するかの問題に捉え直しつつ、そこに後者の理解を持ち込むと、

条件上の最善(引き受けるべき類の内在事情外在事情から導かれるやむを得なさ)の意味での、できるだけの事をしたが駄目だったという内実持つ負け方なら、否定の余地なしになる、

そう解せば、常に纏わりついてる有限性問題との付き合い方が、やむを得ないと言える有限性に持ってく内容でない、
例えば、いらぬ不幸の発生を抑えにいくとか、負わせる負わされるをやむ得なさの帰結に持ってく(不当獲得的側面を縮小させる)気がないのだとしたら、

その原因として、否定反応の機能不全(局面の固有性把握の精度を大した理由なく下げるような、内在事情外在事情の引き受け方)が疑えるはずです。

恣意の正当化目的で自由概念なり権利枠組み(例えば、財産権)なりが持ち出されていても
(負わされへの否定的反応が具体化精度の高低差異とは無関係なもの、つまり、通用領域の広狭との向き合い方が通用領域の狭いものであっても)
まかり通るのが珍しくない(パラダイムレベルで保障されてるこの事態に、再構築する気もなく、しがみ付き居座り続けてる)など、

文系域が、都合の良い不当獲得構造の押し付け合いや、特権的扱いの正当化合戦の様相呈してるのも、

知的上層すら否定反応が表層反転な内容(場の代替不可能な固有性に合わせる方向へは向かわず、場に合わせる合わさないを振り子するだけの解決観など)に留まってる結果でしょう。

(例えば、自我始点化の乗り越えに見られる表層反転な解決は、対近代の観点では、分離処理への過大評価という近代的手法でもって対近代に挑む実質不在に他ならない為、
近代以来、パラダイムが事実上刷新されてない原因も、否定反応の機能不全でしょう。)

人数を数える際の余計な要素無視も、小学生による理科の実験での条件設定も、何らかのレース(比喩込み)で不正なり不当な扱いなりを防ぐ運営管理も、
場の(問うべき差異を指示する)固有性の発現を保障しつつの形式や帰結の組み上げ処理な点は同じであり、

その処理(局面と着目無視の一致込み)は、より確からしいものが取って代わる運動性に課す具体化条件を、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にのみ応じる主体像に限った結果としての生もそこに含む、
精度を最大化させた抽象化具体化(この反復としての歴史性)を言い換えたもの、

より抽象的には、内在性質と外在性質の統合として現象を捉え、代替可能要素をできるだけ削ぎ落した両性質に統合を限る処理と同等である次の二つ、
何ら限定されてない状態の準備と引き受けざる得ない限定条件の割り出し、(人間の場合、次元設定自在性という人間性を注ぎ込む形で臨む)これらによる、有限性与件下での通用が行き渡ってる状態の確保、
という世界に事実上唯一ある問題を言い換えたものに過ぎないと考えます。

(通用領域の広狭と確からしさとの相関への依拠始点化を、埋没させてるパラダイムが支配的な状況は、認識にいらぬ限定を課してくる為、
文系域での思考展開が、通用の行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転にならず、
通用の行き渡ってないものを選び、紡ぎ続けてても否定しないという意味で、実質の有無を区別しない論理観の具現になるのがデフォルト。)

つまり、計算ミスもアンフェアへの寛容さも構造は同じなのに、文系域が、
ポジション次第でアンフェア(各場の固有性に即した割り振りへの不支持)が許される(強者に許すか弱者に許すか、といった違いがあるだけ)世界であり続けてる
(対管理などで、上で言う保障からの乖離の有無が論点になってない、つまり、具体化精度の高低差異が対象位置づけに反映されない)のは、

同種の他との共通要素捨象ベースか差異要素捨象ベースかの違いに過ぎず、対情報に際する局面と着目無視の一致配慮の点では同じ
(捨象の得手不得手や情報の深追い具合に関する有限性問題については、先の主体像の下で具体化されてる凹凸なら受容に値するもの扱い)、

文理関係についてのこの全体像を被教育者が持ってないという、井の中の蛙状態(全体像拡張に伴う各要素の再位置づけ以前)の現れであり、

知的上層へと至るまでに、文系域での否定反応の機能不全(場の固有性に即した割り振りとしての帰属を保障する内容でない)含め、共通要素捨象系の理解力(対象に関する抽象具体の関係構造の像構築力)の低さ

(新しい具体形パターンの登場可能性に閉じない態度を持ってようと、その像を確からしくする働きに大して繋がらず、
通用の行き渡ってないものを行き渡ってる扱いしてる内容の位置づけ、例えば、えん罪含みの対象理解を、対外界に反映させてる事態)が修正されない現状の現れでしょう。

なので、量的な理解力や思考力のみで知的上層になれた文系者の多くが、自身の理解力思考力の形骸性(量への偏りが余裕の有無等の局面事情に帰属せず、次善の策居座りでしかない)を認め、
具体化精度の高低差異を対象位置づけに反映させる方向で修正して(再生産ループ止めて)くれないと、

世界の表層形がどう変転(洗練化込み)しようと、世界の抱えるいらぬ歪み(否定に値するもの)は大して減らない、

この理解の周知を目指しましょう(この理解を踏まえた対外界は、先の主体像の下で具体化されてるものならOKとし、表層形で断罪しない)。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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