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論点のすり替え(技術的な話)どころか、文系域での知的行為や倫理的振る舞いが既に、たらい回し反応をその実態としてる件(004の再構成版)

2021-7-004'

論点のすり替え程には直接的でなくとも、これまでの文系域での知的行為や倫理的振る舞いは、

同種の他との共通要素の捨象アプローチが育成対象でないパラダイムのせいもあり、
行動原理を(自他のそれが持つ、より確からしくなる余地の把握込みで)捉える処理が、
最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない主体像(負うを許容する地点としての、通用が行き渡ってる状態の有限性)との距離で評価する観点を、背景に持ってない(文系域での検討系理解力に響く)為、

たらい回し(帰属の修正作用的には空転な、それを潰してるほど加工が受容に値するものになる類の乖離を、保存したままの表層形変転)だったと見るべきです。


例えば、フェアを越えて自他を助ける(他者性の確保程度も含む)ケース除いてない救済観は、
アンフェアの被害の発生と引き換えに助けてる(不当な扱い受ける立場を無くすのでなくパスしてるだけ)わけで、
規範に対する無検討も単なる相対化も、このレベルと言えますから、

形式の選抜含め、ポジションや具体的有り様を割り振ってる原理について、各場の代替不可能な固有性の発現保障の観点から評価するという、

有限性自体の不可避性や代替不可能化させた有限性形態から成る、引き受けざる得なさの受容と整合的な、救済観や属性論ポジション論の採用、
及び、擁護や断罪を表層次元のみで、つまり、割り振り原理の検討が不全な状態で、判断する何ら新しくないセンスに組しない姿勢は、

他者の行動原理に見た受容に値しなさへの反応も当然含む、自身の行動原理を確からしくする上で、
妥当不当の観点での反応でない事意味する、不当獲得構造に不当獲得構造で応じてるレベルから脱し、先の主体像の下での得る得ない、できるできないを自身や世界の姿とする上で、必須でしょう。


例えば、政治経済も、その主体像からの遠近に関する個々主体における差異を、扱い差に反映させるべき局面などないかのような権利観

(フェア主体アンフェア主体の別なく保障するという用い方)を前提にしてる時点で、

各場の性質(変容し得る)に割り振り(形式の選抜含む)を即させる事自体は前提としつつ、発現保障の対象であるその性質を代替不可能なものに限ってるかどうか、
そこを論点にしてるとは言えない(集積する事で場の性質を構成してる個々事情の内実が不問)、
この意味で、たらい回しレベルの思考や議論に終始してきたと言えると思います。


こうした現状を、既存の教育(間接的なもの含む)と整合的な知性や倫理に固執するなど、保守する圧力の影響力をできるだけ削ぎ、これまでと異なる世界を現れやすくする為にも、

求め過ぎる者の登場問題(対秩序における古代末期以来のアキレス腱)を保存した
(各場の固有性に即した割り振りを追求しない)まま枠組みを洗練させてきた流れ(ヨーロッパの中世近代間で断絶あり)、

プラトンやカントの提示した割り引かれ構造自体に手を加える
(何ら加工されてない状態の準備と引き受けざるを得ない加工条件の追究、この内容の対加工作用でない)対近代

(抽象化や具体化条件割り出しの精度も、動性の劣化阻止も、
何を捨象するかに関する対加工作用の問題なのに、各局面での捨象対象選定の精度を論点にしてない、

それ故、文理の分別不全を保存したまま、つまり、固有性に対する検討の事実上の不在、対象にとっての引き受けざる得ない要素の取り出し不全をはじめ、
加工の有り様を局面事情等の場の固有性に帰属させる運動性への阻害許したまま、文系域での帰属の修正が語られる対近代)、

この二つのたらい回し展開
(より確からしいもの、より通用領域の広いものが取って代わる運動性を内実へは向かわせないまま、他より確からしいと言い張り、押しつけさえする構造に対し、
疑問を持たない、低通用物扱いが生じてるとは言えない、既存の知的上層の地平)
を押さえた全体像持つ人を増やしましょう。


さらには、人は井の中の蛙状態(不当な扱いについての全体像込み)からスタートする上に、
全体としてる枠を広げよう(対象位置づけを確からしいものにしよう)としても有限能力の事情で凹凸が避けられない、

これを理解作用が持つ前提と認め、注力や枠組みインストールを先の主体像
(代替不可能性という、引き受けざるを得なさ)に即させる事で、いらぬ特化避けた凹凸に抑える教育、

先の主体像に自由や平等の実質を見て、場の固有性の発現保障
(次善の策への甘え過ぎ甘えなさ過ぎ部分をあぶり出す際に必要な像でもある、局面事情に即した着目無視込み)を育成(形骸倫理への対策)し、

(思想系に見られる、表層反転を振り子するだけの歴史踏まえ)文系域での対帰属も、上で言う運動性に乗せるよう導く(形骸知性への対策)教育、

それら(内在場でも外在場でも、その性質から表層的要素を取り除いていった先に、割り振りが即すべきものを見るよう働きかける教育)を展開しましょう。


今この状況での可能不可能、必要不必要といった判断は勘違いであれ常に下してて、その結果は内在系と統合されて現れてる、

価値付けや通用領域判定など、ポジション割り振りを為す際の観点は各場の固有性であり、
ある場での割り振り結果の、他の場への持ち込みを許す事になる為、
無数にある各場の固有性に対する尊重の、それを内容とする他者性確保の不在なり、持ち込まれてる自己やそれが負わせてくるものからの自他の解放の放棄なりを意味する、
固有性への事実上の検討不在が、適正とは言えない扱いの意味での不平等の正体、

こうした理解踏まえ、被加工自体は前提として扱い、そのやむ得なさ具合を論点とする全体像と、整合的な自由観や平等観の獲得を促しましょう。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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