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2052文字、対人や対世界を認識論に遡って捉え直した場合の論点について
2024-11-006
テーブルの上の林檎を見ても一面しか見えないわけですが、一面だけが見えてるとの位置づけ処理は、
全体像についての仮説も伴ってるでしょうから(もちろん、決めつけないという態度も可能)、論点はこの全体部分関係に関する抽象化具体化の精度です。
この事例での見る角度の差異に対応する異なる見え方を踏まえた全体像構築に相当するのが、
常識においては、現代日本の常識と100年前のアメリカの常識といった、異なる時空における差異を踏まえて、
特定時空性に合わせた加工を受ける前の状態に遡る処理(具体形パターンが網羅されてるほど加工要素を削ぎ落せる為、
場に合わせるという反応に抵抗がある絶対主義的安易さを抱えてる人はこの処理能力を上限化できない)であり、
その状態が負わざるを得ない特定時空性を割り出して付し直したものと実際有り様とのズレを修正余地扱いするのがそのまま、
常識が受容に値する(常識の持ってる限定通用性が修正余地のなさという内実確からしさを反映した)ものか、
受容に値しない(そのまま受容するといらぬ特化になる)ものかの評価と言えて
(日本の場合で言うと、手段のバラエティへの限定が場を荒らさないという問題意識によって為される事で、
限定がフェアのみである場合と重なってない事態、目的を見失ってる事態に陥ってる可能性、ひいては、常識もそうした事態の反映物である可能性が十分にあり得るので、
受容に値する状態へと持っていくという目的意識やいらぬ特化への敏感さを保持する対処が必要です)、
これが機能してれば、変化不変化の程度という表層形への着目によって矮小化された政治や経済に付き合わずに済みますし、
機能してない(妄信か反動反発の符号反転なだけで同レベルな二択状態となり、
機能させにいくだけの余裕があってなお妄信してるとしたらそれは、修正余地のある成立を修正余地がないものとして扱う知性倫理美意識不全の証拠です)と、
その人の対現在やそれを紡いだものは形骸です(その人が対現在についての確からしい原理を持ってるつもりである場合、
林檎を数えられないのに数を数える事ができてるつもり的な事態を意味してしまうからで、それ故に、左派の権威が語る対現在であろうと形骸です)。
しかし、既存の教育は主観等の個別性に対する同種の他との差異要素捨象に関する能力は育てても、同種の他との共通要素捨象に関する能力を育てない
(抽象化具体化の精度に対し理系的にしか寄与せず、個別性が根拠になる局面で修正余地を保存、保障する知性倫理美意識不全の原因になってる)、
既存の教育と整合的な人の下す評価は、後者捨象を用いた抽象化具体化が不十分(有限の与件性と向き合わない絶対主義的安易さも、
より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害が最小でない有限性まで許容する相対主義的安易さも、この弊害)なせいで、
政治経済における理想現実関係どころか、自他の対世界や対人が受容に値するものかどうかについてからして真に受けるに値しません。
同様に、実存の無条件肯定が内容の理念(例えば、通念的な愛や自由)を採用してる人の下す評価は、
付し直すべき具体化条件が代替不可能な内外事情にしか応じない実存であるケースに対応できないせいで、
政治経済における個々事情の集積どころか、自他の対世界や対人が受容に値するものかどうかについてからして真に受けるに値しません。
ちなみに、実存は存在してる以上、置かれてる場に自身を通用させ続けるという存在課題をこなしてるので、外在性質を必ず取り込んでます
(現象は内外性質統合体であって、たとえAさんが歌いたいように歌っていたとしても、それが可能な局面だったかそう勘違いしてるだけであり、
外在性質と無関係に現象してるイメージ、および、割り引かれ自体を忌避してる内容の問題意識は必要ない)。
また、この課題に取り込むスタイルも自我(内在系)や文化(言語等の外在系)という形で偏りを持つわけですが、
偏りは有限性に由来する為、偏りを無くそうとする発想(優勢劣勢有り様や役回り振り分け、
他種や無生物への扱いも込みなこれらについて、場が持たざるを得ない偏りの反映であるケースまで認めない差異否定な秩序観や救済観もこの産物であり、
例えば、無知のヴェールに意義を認めてしまうのもこれらが前提であるからと想像されます)は有限の与件性を否定する絶対主義的安易さに陥ってると言えて、
偏りに対しては、存在するのと引き換えなものに限るという肥大化除去、言い換えると、相対主義的安易さの除去があるだけと解するべきで、
実存に対するそれ(能力や情報や可能性の獲得喪失有り様が肥大化した偏りの産物でないと言える為の条件)は事実上、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存への志向(社会規模では、その実存同士から成っているいないと関係なく人間関係の有り様を肯定否定する評価に対して形骸扱いするなどの、
代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の集積への志向)であると考えます。
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