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4257文字、パラダイム由来の疑似問題からの解放も可能にする方向性とは(日本社会がいらぬ劣勢を負う理由、および、戦後世界の本来的論点にも触れつつ)
2025-1-001
対象を不完全さ持つ一人の人間として認めた(絶対主義的安易さの回避)上で、
有限(内外境界発生)の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性にのみ帰属がある状態(帰属関係の修正の上限)の時の不完全さしか受容しない(相対主義的安易さの回避)。
小学生前半の時点で対親や対先生での課題(一蓮托生状態からの離脱)として生じてるこれを一般化したもの
(文系の概念にも適用可能となるよう、現象を内外性質統合と解した上で、両性質を取り違え最小化した現象に受容を限定する、こう拡張したもの)が自由であり、
そのような不完全さしか受容させないようできるだけの事をしておくのが自由を奪わない有り様であると考えます。
また、対象によらず(社会的な位置によらないだけでなく、過去現在未来にもよらない)、 そのような不完全さ(自由を奪わない有り様)であるよう求める
(それ以上を求めたり、それすら求めないとの意味での過不足な要求を避ける)のが平等である
(自由における一般化に相当するのが、概念や個人や国にとっての内在場であれ外在場であれ、
場に置かれたものにとって、場の取り違え最小な個別性が場全体に行き渡らせる整合に限っては受容に値するとする方針であり、
この場合、管理者立場もプレーヤー立場も、場の上に立ち上がってる秩序についての、
あるいは、実態でありさえすれば良いとする実態露呈止まりな問題意識においては捨象されてしまう、秩序の構築のされ方という内実についての受容条件は同じなので、対立関係にはならない)と考えます。
(ちなみに、連関全体をそのまま捉える系は、場の表層の汚れをぬぐうだけな現象学系や直観重視系と同様に、
場の上に立ち上がってるものへの場の個別性に関するいらぬ取り違えの反映の有無、という具体化精度を扱いたい場合、採用できません。
具体化精度を扱えない以上、主語について想定可能なものの全体から切り出してきた具体物であり、
同語反復型込みで述語から見ると抽象物であると解しつつ、抽象化具体化の精度を論点とする枠組みとは整合しませんし、
主体の振る舞いに対しては、その主体の内外事情の取り違えが小さいほど修正余地がなく受容に値するという抽象次元での評価と、
受ける扱いは置かれてる場との整合なので、具体的扱いについては置かれてる場の個別性の取り違えが小さいほど修正余地がなく受容に値するという具体次元での評価があると解し、
文章の発信と受信も、発信側における概念群と文法の統合という抽象次元、および、意図や文脈による整合という具体次元がどうであれ、発信者が代替不可能な内外事情にしか応じない主体像であれば肯定され、
受信側においてそれらが受ける扱いとしての齟齬や評価がどうであれ、受信場の個別性が代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の産物であれば肯定されるとするコミュニケーションの方向性とも整合しません。
また、プラトンアリストテレスの事情で主語述語問題よりも上流に位置する理想現実問題でも、
理想現実関係の一種である問題の持ち方問題、帰属関係の修正余地の全体から主体の個別性をもって具体的問題を切り出し、
具体的問題から主体の個別性をもって必ずしも解決でなくて良いその時点での受容に値する状態を導く話としてのこれでも、同内容の枠組みとは整合しませんから、
理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実である代替不可能な内外事情にしか応じない実存と実際有り様との乖離具合が、その人にとっての責任を果たせているいないの差異に相当する為、
乖離具合の把握が不正確でも素朴な自由意志議論ぐらいなら退けられるとはいえ、自身の責任領域の把握に失敗してる証拠となってしまいますし、
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関に肯定も否定も、判断の確からしさは着目無視する差異の設定である観点への同相関の適用の厳格さ程度によるとはいえ、依拠してる事実は、
帰属関係の修正余地のなさという内容の通用が行き渡ってる状態への志向を持たざるを得ない事実を意味し、
この志向の具現が知性倫理美意識であると解せば、上で見た問題の持ち方問題における一連が機能してる必要のあるこれらの働きが形骸化してる証拠になってしまいます。)
この自由平等観を認めてしまうと、個人の精神や国家の権威や科学の在り方を教会の都合から分離した事例は、
場に合わせる合わさないの表層形反転二択(実質は外在場内在場の上下論)に留まってる不十分なもの(疑似解決)との解釈になりますから、
この自由平等観の採用は、近代以降のパラダイムからの離脱(上の意味での自由の達成)でもあるはずです。
ここで、この各分離について見ると、無限者との対峙を代替不可能な内外事情にしか応じない実存
(より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害が最小な有限者有り様である為、
この運動性を無限性と解せば、最も無限者に近い状態)に限定してる信仰に限って受容する信仰観への刷新とは無縁である以上、
内在場外在場上下論の上下反転に過ぎず、外在場の内実の確からしさ向上を達成する側面を欠いてる点では共通ですが、
科学の在り方の分離は内在場に関して、場の取り違え最小な個別性を場全体に行き渡らせてる
(同種の他との差異要素捨象を用いた抽象具体関係構造の像構築としての厳格な対象理解が、
対自然への拡張によって個別性が根拠にならない局面全体に展開される事となった)のに対し、個人の精神や国家の権威の分離はそうではない為
(点から線への移行には点に関する同種の他との差異要素捨象の無限展開による飛躍が必要だけれど、
そもそもこの捨象は個別性が根拠にならない局面での冒頭の相対主義的安易さの回避に相当するのに対し、
個別性が根拠になる局面では、論理展開や関係性構築であれ、歴史展開や世界構築であれ、グローバルとローカルのどちらが上か論を廃棄する要領で、
個別性捨象の持ち込みを避けつつ、同種の他との共通要素捨象をもって内実確からしさを保障する必要があるのに、
内面世界や社会の個別性は現在も、代替不可能な内外事情にしか応じない実存やその集積の帰結である事を意味しても、要請されてもいないので、
個別性が根拠になる局面では少なくとも、存在するのと引き換えなレベルの個別性と言える段階にはないものが根拠になってる為)、
理系が分離という表層形をもって自身の内実の確からしさ向上を達成した姿を横で見ていた文系が、
分離という表層形だけを参考にした形であり、その挙句に、個人と国の対立関係(疑似問題)を理論化し、実践さえしたと見なせるはずです。
したがって、近代以降のパラダイム(によって保存されてるいらぬ不完全さとの一蓮托生状態)からの離脱を包含する自由平等観の採用には、対文系における表層的な問題解決(内実不問な処理)の廃棄、
特に、問題状態と見なした表層形を反転させて、不当な部分まで肯定されてる事態を、妥当な部分まで否定されてる事態に変えるだけで済ます粗雑な対応の内、
緊急を要する等の局面事情によって要請された次善の策ではないケースの廃棄も含まれてる必要があります。
なので、場に合わせる合わさない、あるいは、包摂されるされない、といった表層形反転二択な発想を捨てるべく、場の代替利かない要素にのみ合わせるという具体化精度確保を論点とし、
表層形については、場の本質にのみ合わせた結果であれば、場を荒らすという表層形でも、場を荒らさないという表層形でも肯定する内容の表層形開放をもって論点から外す有り様
(具体化精度確保とその結果のフィードバックによって可能になる抽象次元改善の上限化を優先する内実次元を生きる生)を阻害してるもの、
例えば、場を荒らすという表層形の回避を優先する文化傾向(チャンスを逸さない、悪手を咎める等の味方にいらぬ劣勢を、したがって、社会にいらぬ劣勢を負わせない為に必要なものまで鈍らせ得るこれ)、
個別性が根拠になる局面での取り違えが最小化されてない個別性を論理飛躍とし、修正余地として扱う能力を育てない
(局面事情と着目無視の合致を放棄してまで自己を正当化したり、いらぬ前提持つのを許容しただけの話を美化したりなど、フェアを越えてまで自身を助ける自我の肥大化が、
解消されないまま権威に至り得る)にもかかわらず、妄信するに値するかのように振る舞ってる文系教育に対し、
内実の確からしいものを内実の確からしくないもののように、および、内実の確からしくないものを内実の確からしいもののように扱わせる誘導
(例えば、謙虚さに由来する素直さはいらぬ前提を持たない反応が期待できるのに対し、そうでない素直さは逆にいらぬ前提も吸収してしまうせいで、
いらぬ前提を持たせたい悪意に概念を利用されてるケース)に騙されやすい状態に仕上げた上で実社会や学問界に送り出す、
というそれらが持ってる働き込みで、より通用領域の広い自由平等の達成を阻害する有害な枠組みとして扱いつつ、
受容が避けられないにせよ、いらぬ前提を体に持たせないイメージで、個別性が根拠になる局面での知性倫理美意識の働きにまでは内面化を及ばさせない、
あるいは、内面化されてない状態となるようその局面での知性倫理美意識の働きを再構築する対応に、パラダイム由来の疑似問題からすら解放される方向性を重ね見ましょう。
(ちなみに、有と無の差異という存在にとっての前提を上下論や単なる両極保有に堕させない為には、
存在するのと引き換えでない要素の存在への帰属を防いでいて、理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実でもある、代替不可能な内外事情にしか応じない実存に、
獲得喪失有り様を整合させる内実次元立脚な枠組みの採用が必要であると考えると、
この整合を要求せずに能力や情報や可能性の獲得推奨を展開する既存の教育は、存在論を表層次元に縛り付けてると見なせますし、
既存の教育論と付き合わずにこの整合を追求する人は、単なる両極保有な存在論の修正点把握が国によっては不可避な課題となった戦後を、
文化に対して外在的な問題解決スタイルと解する事による文化の絶対化の回避、かつ、両者割合に対して局面事情次第と解する事による曖昧と明晰の両極反転関係化の回避だけでなく、
反省概念が権力奪取機会と結び付けられ、何らかの反省課題が権力奪い合いの舞台と化す展開の回避も含まれる内実次元立脚な内容をもって、個人レベルでやり直してるとも見なせます。)
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![欧米文系の権威性からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/20187017/profile_f329feb0d2c5830ec2986250a587faca.jpg?width=600&crop=1:1,smart)