3538文字、我々は文系における思考や議論を、あるいは、文系の教育を生かし切れてないし、形骸なそれらに振り回されてる事実に気づいてないという話
2024-9-002
肯定否定の根拠を、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関と解し、その相関を何の差異に関して持ち出すか決める観点設定についてもその相関を適用するレベルで、それへの依拠を徹底する場合、
それでもなお確からしい、内外境界の発生を意味する有限の与件性、通用領域の常時上限を意味するより確からしいものが取って代わる運動性としての無限性、これらの統合物であるかどうか、
つまりは、有限性がこの運動性の受容阻害を最小にしてるかどうか(当然、より確からしい有限性有り様に修正する機会に対して閉じてたり、
改悪展開に対して許容的なら、最小でない)の問いのみが疑似でない問題となるので、
受容阻害最小状態(代替不可能な内在性質と同外在性質から成ってる現象有り様、
あるいは、抽象化具体化の不十分さ解消状態)のみを肯定してる内容ではない枠組み
(局面の取り違え最小な個別性と無関係に明晰曖昧の割合を決めるのは外在性質の過剰否定である為、
明晰さを信奉する哲学も、曖昧さを信奉する哲学も含まれてる)は、疑似問題をこねくり回してるだけと見なせます。
例えば、良過ぎる家柄に生まれるなどで、一般の人から見ると不思議な現実認識を持ってる人も、結婚などを機にそのズレが縮小し得ると、
実際、芸能界の事例などから言えるのでしょうし、実態からのズレが小さいに越した事はないでしょうが、
取り違えでない理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立ってる現実からのズレを問題視してない
(限定を受ける前状態の準備とそれが負わざるを得ない限定条件の割り出しが、
つまりは、抽象化や具体化が不十分である安易な有り様に修正余地を見ない知性倫理美意識の持ち主、
特に、理想的な何かと対峙してる際の実存有り様が、存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させてない内容である為に、理想に対するいらぬ割り引きが生じるのを防いでると言える状態を、
維持したままの感覚なり思考なりであるかないかを区別しない、当然、感覚や思考、表現や議論はその状態にある実存への志向を先立たせてないと、
獲得可能なより確からしいものに辿り着けないとの意味で生かし切れないとの理解もなく、理想に対する尊重に自負がある場合はそれが形骸でしかない人)なら、
外在実態とのズレを否定してようが、外在有り様の他可能性を肯定してようが、上で言う疑似問題です。
(ちなみに、認識場の個別性や個人の事情に合わせる合わさないの二択を、それぞれデカルト的誤謬とカント的誤謬とした上で、社会の実態に合わさない合わせるの二択も含むものに拡張すると、
文系事象に対し、個別性の内実不問な根拠化と個別性捨象との二択に持ち込み、一方への批判にかこつけて他方を押し通すロジックに遭遇した際に、
近代人の失敗を反省もなく繰り返してると評価するのでないのなら、その人自身が繰り返してる、もっと言うと、近代が持ってる枠組みをその弊害込みで保存してる、
例えば、管理者は担当してる場でのポジションや具体的有り様が受容に値するだけの確からしさを持つ状態の確保に責任を負ってると解せば、
他の場の価値体系を持ち込むなどの、場の取り違え最小な個別性に即した秩序からの乖離は管理不全を意味するのに、
認識場に関しても、大小様々な社会に関してもそこの乖離具合を評価できない枠組みの弊害である、
場の取り違え最小な個別性と無関係に、秩序の表層形が好みに合ってるかや都合に適うかで評価され、異なる好みや都合の間の優勢劣勢有り様も同様に無関係である事態を保存してる、
あるいは、秩序に対するより確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害最小状態の現れと言えない部分込みで肯定する過剰肯定や言える部分込みで否定する過剰否定、
妄信と反動反発の二択からの脱却という十代前半の達成課題の未達弊害でもあり、
検証精度不足は仮説改悪に繋がる以上、具体化精度を軽視した抽象重視は形骸なので、理想軽視が持つ安易さや理想重視が形骸化してる事態の証拠でもあるこれらを保存してると見なせますし、
修正能力が機能してない以上、その人に可能な確からしさ上限な像も持ってないと解せます。)
なので、問題視を欠いたままのそれらが見られた時点でその人は、修正余地がないとの意味で受容に値するもの
(抽象化具体化の交互反復としての歴史展開が、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消状態にある)かどうかの観点から為す歴史への評価が、
変化不変化有り様の望ましさへの反応に先立ってない為、自己をどれだけ正当化してようと、
内実の確からしい変化不変化有り様への志向を潰し、疑似問題を内面化する方向
(注力的問題解決である意識の何に注力するかという具体化の精度が低い為に、抽象次元である無意識が改悪となる展開)に対象を引っ張る形でしか、自身が影響を与えてしまう主体と関われない
(負うに値しないものを負わせる関わり方しかできない)事が意味される、そう解せるはずです。
ところで、理解や実力は、この場合こうなる、こうするという具体化条件パターンの網羅状況が、現実の複雑さに通用してる感や通用してる程度であるので、
精度の低い具体化の産物が対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像に混入してるほど、いらぬ限界を負ってしまい、
それを防ぐべく、文系事象に関しては、自他における代替不可能な内外事情にしか応じない実存
(例えば、余裕がない局面での次善の策に余裕が生じてなお頼る、本筋への過剰割り引きが見られるならこれは言えない)の下で得られた経験と、
理系における精度の低い実験結果に相当するそうでない経験との差分までフィードバックしないよう
(存在するのと引き換えでない要素まで存在に帰属させてる帰属操作の反映部分、
つまりは、その主体の内在場や外在場における同種の他との共通要素捨象に十分さらされた個別性とのズレ部分を、
文系的な論理性を損なってる部分として、対権威においても情報から切り捨てるよう)要求する必要が教育者にはある。
また、その実存と整合してない獲得喪失を強いてその実存を生きるのを妨げる、
したがって、問題状態の総体から自身が取り組む具体的問題を取り出す際にその実存を具体化条件としてる生も妨げるなど、
その要求をしてない形である為に、文系が理系に水をあけられてる原因(抽象化具体化の不十分さを縮減する働きが不全な学問を疑似と見なすなら、疑似に留まってる原因)となってる教育者、
言い換えると、有限性が前提である以上、できないや失敗に関してはより通用領域の広いものが取って代わる運動性の受容阻害最小化の下での有限性かどうかが論点だろうに、この理解を欠いていて、
獲得喪失具合という表層形有り様に着目させ、表層次元に生きる事を強いてる教育者は、上のような関わり方をしてくる有害存在に他ならない。
(理系的な論理感覚を文系的局面にも持ち込む先のカント的誤謬から成る現行の学問像に、この文系学問有り様は世界有り様に当然響いてるにもかかわらず、
例えば、帰属修正的な主体と帰属操作的な主体を、あるいは、帰属修正が先立ってる理念と先だってない理念を区別しない個別性捨象から成る権利概念が、帰属操作を保障しながら世界を覆ってるにもかかわらず、
疑問を持たない知性と、点数を取る為に自己のいらぬ特化を許容してる対受験含む被教育姿勢とは繋がってると解しましょう。
もちろん、ここで言ういらぬ特化は、その人の取り違えを最小化させた内外事情に即してない獲得喪失の事なので、
取り違えを最小化させた局面事情と着目無視との合致の下での対他者や対自己を生きてない時点でそれが言えてしまいますから、
個別性を根拠にする作業に個別性の取り違えを回避する処理も含めると、個別性が根拠になる局面において、
認識場の表層の汚れを拭う実態露呈で済ませるデカルト的誤謬もいらぬ特化です。)
この事実を、内実不問な評価空間(有限性の修正余地なさ程度という、有限性の修正余地なさを、
つまりは、自己もその個々具体である存在に対して尊重する限りは負わされるに値する状態である事を、
条件とする表層形開放に必要な論点が不在である空間)に振り回される程度を抑える為、
また、帰属修正余地の有無が不問なせいで、有るものを無いものとして扱って負わせるに値しないものを負わせたり、
無いものを有るものとして扱って負うに値するものを他に擦り付けたりと帰属操作が可能で、
帰属修正余地の無さは有限性が前提である限りは先の受容阻害最小状態を意味するので、
より通用領域の広いものがとって代わる運動性について十全には働いてない世界と言える同空間の保存に加担しない為、認めましょう。