【エッセイ】文体は、指紋である
文体、というものは指紋である。
同じ言語を用いているのに、ひとそれぞれその世界の切り出し方が異なる。捉え方が異なる。そういった点で、文体というものは実にユニークである。
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己の筆跡を他者と判別するものであるはずなのに、実体があるようで無い。その人の文体と呼ばれるものは危ういものであり、常に隣の誰かとくっつき、また離れ、危篤状態の患者の心拍計のように揺らぎ続けている。
文体自体には判子のような証明の効力はない。あくまで連続的、継続的な文学的作業の中で、何かを特定の様式で書くことで、他者と自分を分かつものである。それゆえ文体は総体としてしか識別できないものであり、本人が意識せずとも自ずと意思や生きざまのようなものが内包されることになる。文学に限らず、絵画や他の芸術にも同様のことが言える。
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文体は作家性とも不可分な点も面白い。筆の運びの強弱、その作家の視点・視座、描くモチーフ、描いたものと描かなかったもの。幾多の組み合わせによって、自分が自分であることを、生来降り注いできた多くの師匠の影響をないまぜにして表現する。証明しようとする。
村上春樹はそれを「文学的雪かき」と喩えた。他人とは非なる文体を試みながら、同時に書くこと自体で他人との境界を曖昧にし、自己の一部とすること。二律背反で全くもって拠り所のない作業であるが、独自の文体とは、常に鮮血の如く、目の前で血しぶきをあげながら、形のない世界に輪郭を与え、形あるものを切り出そう、映し出そうとするものである。文体は雪を掻き出すスコップであるし、自己と読者をここでないどこかに連れ出すビークルでもある。
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そして、誰かに読まれる文を残そうと思う人間が、必ずぶち当たるのは「オリジナリティ」の壁だ。透明な水のような文体を、故意に澱ませる原因である。あなたは朝、コーヒーを飲みながら、昨晩夜通し書き殴った文が、最近読んだ小説の一説のようだと気づき、呆然とする。
わたしの試みは何か。文体とは何かを論じることで、作品のオリジナリティという言葉の呪縛から、(潜在的な、あるいは将来的な意味合いにおいても)作品に挑む者をいくばくでも解放することである。
あなたが今まさに書いている、まだ世にない作品には、あなたが体験した幾多のもうある作品群や作家の肉片が混じっている。それでいて、あなたの文体には、まっさらの紙に書こうという意思には、自ずからオリジナルが宿っている。文体は生き物だ。変化し続けるものだ。書き続けるうちに、死んだ巨匠より、生きているあなたのものになる。
書き続けよう。
拙文が、筆を持つ者の勇気にならんことを。