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ゴミ拾いは「幸せ還し」!?

 こんばんは、やくるこです。

 自分の人生とか性格とかについて色々と考えていたら、ゴミ拾いにまで考えが発展したので私なりの「ゴミ拾い像」(?)について書こうと思います。
 すんごく偏った考え方かもしれませんが、そんな考え方もあるんだぁくらいで読んでいただけたら幸いです。

私のゴミ拾い事情

 私は、まちを歩くことが大好きで、自転車も持っていますしバスや電車が便利なのも十分わかっていますが、いけるところは歩いて行こうとしてしまう質の人間です。

 散歩に行こうと気分るんるんで家を出て、道を歩いているとつい視界に入ってくるのが、ポイ捨てされたゴミたち。

 もう、せっかく人が機嫌良く歩いてんのに、だれや、ペットボトル捨てとる人。しかも中身めっちゃ残っとるやん。もったいな。ちゃんと責任持って処理してもろて。

 そんなことをぶつぶつと考えながら、ゴミ拾いセットを持っている時は拾いながら、歩きます。

 しっかりゴミ拾いに専念したいときは、紙袋を持って、軍手をはめて河川敷を歩きます。やはりそこでも、色々なゴミに出会います。
 タバコの吸い殻は当たり前、お弁当の殻とか、パンの包装とか、微妙に中身が残っているジュース缶とか、ひしゃげた自転車とか。河川敷でご飯食べたり休憩したりするのは自由です。でも、なんでそのゴミを捨てられるのか、また落ちたことに気づかないのか、わからない。信じられない。
 捨てた人に聞いてみたいくらいです。

近所の川に捨てられていた自転車

改めてゴミ拾いについて考え直した

 今までは、ゴミ拾いに対して、負の感情メインで向き合っていたことに気づきました。

 他の生物たちの生活の場を壊して、生態系崩して、なんとも思わないのか。地球は人間のゴミ箱ではない。

 こういうゴミを捨てた人に対する怒りと、自然環境に対する罪悪感、ゴミを拾うという行為に対する優越感。自分はこんなに良いことしてますよ~っていう。偽善だと思われても仕方がないなあと思います(自己肯定感が上がるという意味では負の感情ではないですが)。

 でもふと、「ゴミ拾いは幸せ拾い」という、どこかで聞いた言葉を思い出しました。
 それを聞いたときは、「じゃあ世の中の人たちみんながゴミを捨てなくなったら、まちは綺麗になって拾う人の幸せはなくなるじゃん」とかなんとか屁理屈言いながらこの言葉と向き合いませんでした。

 でもこの考え方を基に「捨てられたゴミたち」と「捨てた人たちの幸せ」に焦点を当てると考えが変わりました。

 捨てられたゴミたちは、製造した責任を果たすために人間によって決められた場所(ゴミ処理場とか、リサイクルセンターとか)へたどり着くことなく、さまよっている。
 すなわちそれは、捨てられた物たちの幸せが実現されていないということになるんじゃないかなと思ったんです(アニミズムな考え方ですが、ものにも魂があるから、感謝しながら大切に扱いなさいと言われて育ってきた私にとっては自然な考え方です)。

 そしてさらにゴミたちの幸せを妨げている人(ポイ捨てをする人)は、自分の幸せも手放してしまっているように思えました。
 この理論はあまり体系的ではないので感情論だと思っていただきたいです。

 だから私は、ゴミ拾いとは「ゴミたちをちゃんと処理・リサイクルされるように拾って分別することで、ゴミたちと捨てた人に幸せを還すこと」だと考えました。
 そして私が誤って落としてしまった幸せも、誰かが拾ってくれたらいいな。そんな循環が生まれたら、素敵な社会・地球環境が実現できるんじゃないかな。
 そうやってわくわくしながら、これからもゴミ拾い頑張っていきたいと思います。

 「幸せ、落としましたよ。二度と手放さないでくださいね。」


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