”ここじゃないどこか”に行かなくてもここじゃない世界にいける
昔からいつも「ここじゃない世界に行きたい」と思っていた。
小さい頃は家という狭い世界から早く出たかったし、学校のクラスという小さな”ムラ”から抜け出したかった。
新しいコミュニティに入っても、すぐに飽きて他の場所に行きたいなと思っていた。
常に”ここじゃないどこか”に行きたかったし、今いる場所を離れたい、外に行きたいと感じていた。要は飽き性の極みで、場所にもそこにいる人間にも「もういっか」と思って次に行きたくなるのだ。
常に新しい世界が見たいし、新鮮な空気を感じていたい。同じ場所に長く滞留して吸う空気は、自分には重くて美味しくはなかった。
そんな気質があってか、昔かた旅をするのが好きだった。旅行じゃなくて旅が好きだった。観光地や絶景を求めてるわけじゃないから、旅行じゃなくて旅と言っていた。もっといえば、移動することが好きなのだ。
大陸から大陸へ、国から国へ。町から町へ、と目の前に見える世界を変えていくこと、吸う空気を変えていくことが好きだ。
そんな空気を吸うと、全身の細胞が喜んでいるような心地になるのだ。
飛行機から降りれば、バスから降りれば違う世界を、違う空気を感じさせてくれる。
旅は”ここじゃないどこか”に行きたいと常に思っていた自分に、新しい世界を与えてくれた。旅をしないと新しい世界は得られないと思っていた。
旅をして得られる刺激だけが、新しい世界だと思い込んでいた。
”ここじゃないどこかに行きたい”という願望は、今いる場所への不満、今いる場所からの逃避欲を存分に含んでいる。そして”ここじゃないどこか”への勝手な理想像を作って、そこに憧れている。
だけど、”ここじゃないどこか”の世界にはそこの現実があって、そこで人が懸命に生きている。そこにはそこの現実があって、それに失望することもある。
世界を変えるために、ここじゃない場所にいくことだけが正解ではないんだ。
2年前の旅以来、日々の感情や思考をメモすること、書き殴ることが趣味になっている。毎日毎日、起きた時の感情とか散歩した感覚、読んだ本の感想とかをノートに書いている。そんなノートも気がついたら5冊目を終えようとしている。
それを見返していると、随分と変化しているのがわかる。同じ本を読んでも、同じ場所に行ってても、同じ散歩コースを歩いても、その時々で感じるもの見ていうものは違うらしい。
空の模様は一度として同じものは無いし、川の流れも、海の波の形も一度として同じ瞬間はないのだから、当然だ。自分の体だって、夏になれば日焼けして黒くなるし、痩せたり太ったり。
代謝をしてるわけだし、数ヶ月前の自分は物質としては別物なんだから感じるもの・見ているものも変わっていて当然だ。
だったら”ここじゃないどこか”も自分で作れるはずだ。自分で作っちゃうのがコスパが良い。
ちょっとした自分の変化を見ることで、以前とは違う世界にいける心地がする。
いつもと同じ道を歩くだけでも、ちょっと散歩するだけでも、違った世界が見えてくるような気がする。
可愛いも作れるし、夏も作れる。
きっと、”ここじゃないどこか”も作れちゃうのが人生だ。