真実はいつもひとつ!なのか? | 『ファクトフルネス 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』
前から気になっていた『ファクトフルネス』を、いまになってやっと手にとった。
読む前の勝手なイメージでは、世界に関するデータとチャートがたくさん紹介されている本だと思っていた。いわゆるインフォグラフィックでもって、現代の社会(の病巣)を喝破する本。
ところが読んでみると、たしかにインフォグラフィックという切り口で世界を説明はしているのだが、そこからもう一段踏み込んだメッセージが込められていることに気づく。
この本は世界の本当の姿についての本でもあり、あなたについての本でもある。あなたや、わたしが出会うほとんどの人がありのままに世界を見ることができないのはなぜだろう。どうすれば世界を正しく見られるのだろう。そんな疑問にこの本は答えてくれる。
仮に、「世界」と「自分」という対比を持ち出すのであれば、(客観的な)世界についてというよりは、(主観的な)自分についての本なのだ。データ(ファクト)についての本というよりは、データの解釈(物語)についての本。
ファクトフルネスの主語
サブタイトルにそれが明確に表現されている。
10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣
「乗り越える」「正しく見る」、どちらも主語は(データではなく)人間だ。裸のままのファクトが、世界を正しく説明「してくれる」のではない。物語という衣をまとう(まとわざるをえない)人間という不完全な存在が、自身の不完全さを小脇に抱えながら、世界を正しく見「ようとする」。その意思と、そのための習慣について書かれている。
訳者あとがきには、こうある。
事実に基づかない「真実」を鵜呑みにしないためには、情報だけでなく、自分自身を批判的に見る力が欠かせません。「この情報源を信頼していいのか?」と問う前に、「自分は自分を信頼していいのか?」と問うべきなのです。そのセルフチェックに役立つのが、本書で紹介されていた10の本能です。もしどれかの本能が刺激されていたら、「この情報は真実ではない」と決めつける前に、「自分は事実を見る準備ができていない」と考えたいものです。
「自分は自分を信頼していいのか?」
批判的(≠否定的)な視線を、世界や(たとえばマスメディアといった)他者に向けるのではなく、自分自身に向けている姿勢に、好感がもてる。誰かを刺しても、世界は変わらない。
本を読むなりして「知識を得る」という行為は、安全地帯から世界や他者を見通すことではなくて、自分自身が揺さぶられることによって、世界や他者に向ける視線がゆらぐ体験であるはずなのだ。世界や他者のことを「わかる」のではなくて、自分が変わることによって、世界や他者に対する見方が「かわる」のである。
データの山から見える景色
ひとりぼっちのデータが、世界について教えてくれるわけではない。自分が、意思と注意力をもって、読み解かなければならない。
勘違いを見つけて、捕らえ、正しい理解に変えるには何が必要だろうか?答えはデータだ。データを見せ、データの裏側にある現実を見せることだ。
私たちが見なければいけないのは、厳密に言うとデータではなく、データの裏側にある現実だ。なぜなら、私たちが知りたかったり変えたいものは、データではなくて現実だから。
この本を読み進めているちょうどそのときに、「データの量が増えたからといって真実の量が増えているわけではない」といった、詠み人知らずの言葉を見かけた。データと現実、データと真実の間には、いつも距離がある。その距離は、知の階層として、こんなふうにも説明される。
DIKWモデル、特にAckoffによると、知は5階層に分けられます。
(1)データ ・・・ 文字や数字などの意味を持たない記号群(渡せる)
(2)情報 ・・・ 解釈し、意味付けされたデータ群(伝えられる)
(3)知識 ・・・ 指針を持って体系化された情報群(教えられる)
(4)理解 ・・・ 評価され納得された知識(解説できる)
(5)知恵 ・・・ 倫理や道徳などで評価された理解(判断できる)
『情報と知識の違いとは?ーDIKWピラミッドー』より
データは、現実や真実に直結しているわけではない。データと真実の間には、距離があり、その距離を埋めるのは、不完全な人間しかいない。彼/彼女が、自分の足でDIKWピラミッドを登らなくてはいけない。
データが語ってくれるわけではない、物語を紡ぐのはいつも人間だ、という話を、データドリブンな組織開発の文脈で以前書いたことを思い出す。
いろいろ話してきたが、最後に落ち着いたのが「継続的改善」という、手垢のついた表現だった。かっこいい言葉が飛び交っていたとしても、結局やっていることはいつも、継続的改善なのだ。そこに「データ」という触媒が加わっただけ。データが語りだすわけではない。前からそこにいた「人」が、データで語り、行動する。行動の結果をデータで見る。こういうサイクルを回し「続ける」ことが、組織に対するアプローチなのではないかなと思う。
『データ「が」語る? データ「で」語る?』より
人間が自分の足でDIKWピラミッドを登る。そうすると、データが醸し出す「客観性」という甘美な響きとは対局にある、属人性という人間臭さが立ち上がる。みんながみんな、同じ山を登っているわけではないし、同じ山を登るにしても、登山道が違うかもしれない。
ロジカル・シンキングの苦手な人がとらわれている呪い
「真実はいつもひとつ!」という、小さな名探偵の決め台詞。人材育成担当者として、「考える力」やロジカル・シンキングについて相談されることも多いのだけど、彼には悪いが、私はこの台詞が「考える力」やロジカル・シンキングについての誤解を端的に表していると思う。真実はいつもひとつ、とは限らないのだ。
事実(データ)と真実の間には、特定の個人による解釈がいつも横たわっている。そもそも、どの事実を取り上げるのか、という時点で、特定の個人による判断を免れない。そして、得られた真実に対して、「それが真実です」という神の視点からの正解発表もない。
考えることが苦手な人というのは、「真実はいつもひとつ!」の呪縛にとらわれている場合が多いのだ。
逃れることのできない属人性と不完全性。それらを受け入れてはじめて、考えるということに真正面から向き合える。間違えているかもしれないから、注意深く考えようとする。自分だけだと偏ってしまうかもしれないから、他人の意見を聞こうとする。「これが正解」と誰も終わりを示してはくれないから、考え続けようとする。これら望ましい知的態度は、自身に内在する属人性と不完全性を受け入れることによって生まれてくる。
謙虚さ、許す、好奇心
データから現実が「見える」のではない。データから現実を、人間が「見ようとする」のだ。ファクトフルネスというのは、ただそこにある、完全無欠の葵の御紋ではなく、そこにいる人間の意思による営為なのだと思う。人間の営為だからこそ、誤謬からは逃れられない。その不可避な誤謬から、少しでも距離を置くために、「10の思い込み」というかたちで誤謬を類型化し、それを乗り越える術を与えようとしている。
一方で、この本が、温かい、人間についての本だなと思えるのは、著者のこんな言葉があるから。
世界について誤解していたと気づいたときには、恥ずかしいと思わないでほしい。むしろ、子供のように純粋な興味を抱いてほしい。わたしはいまでもサーカスの興奮を忘れていないし、自分の間違いに気づくたびに、「すごい!そんなことがあるなんて!」と思うようにしている。
なによりも、謙虚さと好奇心を持つことを子供たちに教えよう。謙虚であるということは、本能を抑えて事実を正しく見ることがどれほど難しいかに気づくことだ。自分の知識が限られていることを認めることだ。堂々と「知りません」と言えることだ。新しい事実を発見したら、喜んで意見を変えられることだ。謙虚になると、心が楽になる。何もかも知っていなくちゃならないというプレッシャーがなくなるし、いつも自分の意見を弁護しなければと感じなくていい。
訳者も、著者の温かい眼差しについて触れている。
とはいえ、「自分自身を批判的に見るべきだ」という主張を押し付けすぎるのはいけません。本能に支配されて事実を無視してしまう人をおとしめても、世の中は良くならないからです。必要なのは、誰もが「自分は本能に支配されていた」と過ちを認められる空気をつくることです。そういう空気をつくるためには、 本能に支配されていた人や、本能を支配しようとする人を叩くことよりも、許すことのほうが大事です。『ファクトフルネス』がつくろうとしていたのは、まさにそんな空気です。ハンス自身、本能に支配されて何度も間違いを犯してきたし、人の命に関わる間違いもありました。この本の第10章では、モザンビークの道路が封鎖されて起こった悲しい出来事を紹介していますが、それは彼が6年間誰にも話せないほどの過ちでした。でも多くの読者は、彼の過ちを許すことができたのではないでしょうか。
たしかにこの本は、誤謬を乗り越えて、完全無欠の葵の御紋になるための、マッチョなハウツー本としても読める。でも私がこの本に見出したのは(属人性を踏まえるなら、見出したかったのは、だろうか)、人間の不完全さに対する、「謙虚さ」と「許し」という懐の深さだった。謙虚さと許しを、明るく朗らかにデコレーションすると、「好奇心」ということになるのだと思う。
「知らなかった」「間違っていた」ということを、欠損として捉えるのではなくて、さらなる成長に向かって開かれていると捉える。そんな、個々人の心持ち、そしてそういった心持ちの集合としてつくられる、世の中の空気。「ファクトフルネス」という言葉が指しているのは、平面に印刷されたインフォグラフィックを超えた、そういった懐の深い世界観なのだと思う。
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