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「文章が書けない人」が近くにいる人へ

ライティングの社内講師をしていたり、資料レビューをしていると、以下の引用のようなことをよく感じる。他人の文章を見る機会の多い人であれば、《自分自身を客観視》というところに膝を打つのではないだろうか。

「文章の分かりにくさ」は、以下の2種類に大別できると私は考えています。
1. 表現の分かりにくさ
2. 文脈の分かりにくさ

(中略)

私は、「分かりにくい文章」の根底には、少なからず「コミュニケーションに対する油断」があるように思います。

「このくらい書いていれば大丈夫だろう」「これで分からないはずがない」という油断です。それは、自分自身を客観視できてないことが一番の原因かもしれません。

なぜ「分かりにくい文章」が生まれるのか。』より

学生時代から、他人の文章を添削する機会が多いのだけど、そういう瞬間に接すれば接するほど、文章の良し悪しというのは、〈日本語〉の技術というよりは、書き手の〈自己認識や他者意識〉に依るのでは、という思いを強くする。

引用で《表現のわかりにくさ》と呼ばれている、〈日本語〉の問題はあるていど、技術的に改善可能なのだ。

一方で、《文脈のわかりにくさ》というのは、記事中では《ターゲティング》と呼ばれているが、まさに〈自己認識や他者意識〉という深層にある問題であり、紙やディスプレイの上に文字が置かれたときにはすでに踏み固められた土のなかにあり、目につきにくいものだったりする。

ただ、逆向的にそこに光を見るのであれば、〈書き終わられた言葉〉を通して、我々は他者の内面に手を伸ばせるとも言える。土の上に顔を出した芽を見ることで、土の下に何が植えられているのかがわかる。

最近は、文章指導をしつつも、文章を指導している感は薄くなり、すべてのコミュニケーションの基盤たる〈自己認識や他者意識〉にアクセスしてる感覚が強くなってきている。

書き手は実際のところ、文章指導を入り口にして、自身の〈自己認識や他者意識〉に手を伸ばされる。他者の手を通して文章が変わる。他者の手を借りつつもまぎれもなく自身が表出した文章を、読み手としての自分が、もう一度読み返す。(私は文章指導において、相手に自身が書いた文章を声に出して読んでもらいます)

書き手は、いったん読み手になることで、書き手としての自分に〈もう一度〉出会う。

「自分が考えていたのは、こういうことだったのか!」「これが、伝わるということか!」という感覚を掴み取った人は、その瞬間に顔が晴れる。文章すなわち〈他者への導管〉を通して、自分と自分とで対話することによって、自分のことがよりよくわかるからなだと思う。

「WANT」は僕の内側にあるんだけれど、それが対話によって外に出てきて改めて自分で見て、これすてきだなって気づいている。そんな不思議な感覚なんですよ。

こんまりさんの『人生がときめく片づけの魔法』って、モノに一個一個ときめくかどうかを見ているんですけど、あの感覚に近いものがある。実際に口に出して話してみないと、ワクワクするかどうかわからないんですよ。

こんなこともできる、あんなこともやってみたいと話をしてみると、聞いている側も話している自分も何にテンションが上がるのかがわかるんです。

そういう意味でも、やはり対話できる他者がいたほうが絶対にいいと思います。プロのコーチでなくても構わない。大親友とか両親とかでもいい。

山口周×鈴木義幸×中島宏】対話を増やし、関係性を変え、組織を変えるには』より

自己(書き手)と他者(読み手)を自由に行き来することで、〈自己認識や他者意識〉が深まる。〈自己認識や他者意識〉が深まっているから、自己(書き手)と他者(読み手)を自由に行き来できる、すなわちわかりやすい文章が書ける、とも言える。この行為を昔から「推敲」と呼ぶ。

自分のなかで自己と他者の行き来をすることが難しいときに、手を差し伸べるのが《対話できる他者》だ。だから、文章指導は、極論すると、文章を見てはいけない。文章の先にいる書き手や、書き手の〈自己認識や他者意識〉を見ないといけない。文章を見るだけの文章指導は早晩、機械に代替される。

もう1つの要素は、「1人で集中して考えること。これを多くの人は見逃しがち」(井上一鷹 氏)だという。

「多様な人と会話をしたとき、何かを生み出そうとするならば、自分がゼロではなく“持論”を持っている必要がある。
そうでなければ、気の利いた話を人に話すだけのルーターのような人生になる。
自分で考えて自分なりの答えを持たない限り、知的生産活動を行っていないことと同じです」(井上氏)

Works 161 オンライン元年』より

《気の利いた話を人に話すだけのルーターのような人生》という言葉の辛辣性に背筋が寒くなる。いわゆる〈コミュ力〉だ。こういう悪い意味での〈コミュ力〉で乗り切ってきた人は、《持論》を求められる場に置かれると身動きが取れなくなる。文章指導をしていると、そういう人に出会うことは少なくない。彼らは、考えるときに辛そうな顔を見せる。そういう顔をしなければ考えられないのを見るのは、辛い。

《持論》とはもちろん、〈正解〉である必要はない。〈仮説〉で十分。〈仮説〉は、《自分で考えて自分なりの答え》とあるように、「私は●●だと考える。なぜならば」という語法を取る。「私は」という主語性を持つという点で、〈仮説〉すなわち《持論》は、〈自己認識や他者意識〉につながる。

その人が〈コミュ力〉で乗り切ってきた人かどうかによらず、私が〈書く〉という領域において身につけてほしいと思って繰り返し伝えているのは、《自分がゼロ》にならないための《持論》を持つこと、すなわち、《持論》の素になる〈自己認識や他者意識〉を育んでほしいということなのかもしれない。

2019年9月にFacebookへ投稿した文章を加筆修正のうえ転載したものです。

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